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黒田直純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
黒田直純
黒田直純像(後世、想像で描かれたもの)
時代 江戸時代中期
生誕 宝永2年4月23日1705年5月15日
死没 安永4年閏12月27日1776年2月16日
改名 三五郎(幼名)、直純
戒名 勝融直純春晃院
墓所 埼玉県飯能市の能仁寺
官位 従五位下、従四位下、大和
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
上総久留里藩
氏族 本多氏黒田氏
父母 本多正矩養父黒田直邦
兄弟 本多正珍直純生駒親睦
養兄弟:繁丸松平忠暁正室九鬼隆寛正室内藤政醇正室直基
正室黒田直邦の5女・三千子
直弘、亀次郎、長吉、京極高慶正室、津軽著高正室、上田義陳正室、三枝守富正室、杉浦正勝正室、芳姫、森光嶢正室
養子直亨本多忠栄正室
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黒田 直純(くろだ なおずみ)は、上野沼田藩の第2代藩主、のちに上総久留里藩の初代藩主。久留里藩黒田家2代。

生涯

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宝永2年(1705年4月23日本多正矩の次男として江戸で生まれる。

沼田藩の先代藩主黒田直邦の婿養子だった直基が早世したため、その未亡人(直邦の娘)と結婚して享保6年(1721年12月に新たな養嗣子となる。

享保20年(1735年)の直邦の死去により家督を継いだ。

寛保2年(1742年7月28日、沼田から久留里へ移封された。久留里城再建のため、5千両を給わる。

翌年6月大坂城加番を命じられる。

寛延2年(1749年)12月18日、奏者番に任じられた。

宝暦13年(1763年)12月18日、従四位下に昇進する。同日、奏者番の職を解かれる。

安永4年(1775年)閏12月27日に死去した。享年71。

跡を先代の直邦の実子で養子の直亨が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

養子、養女


先代
黒田直邦
黒田氏歴代当主
1735年 - 1775年
次代
黒田直亨