生駒親睦
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生駒 親睦(いこま ちかとし、享保19年(1734年)[注釈 1] - 天明2年2月12日(1782年3月25日))は、江戸時代中期の旗本。通称は三左衛門、監物。
生涯
[編集]駿河国田中藩主本多正矩の七男として誕生した(本多正珍の庶長子とする説もある[1])。
養嗣子の生駒親信に先立たれた交代寄合生駒親賢の養子となった。明和8年(1771年)3月25日、将軍徳川家治に御目見した。同年8月8日、親賢の隠居により家督を相続した。安永9年(1780年)7月1日、初めてお国入りする許可を得た。生駒家は交代寄合であったものの、それまで参勤交代をしていなかった。天明2年(1782年)2月12日、死去。49歳。家督は子の親章が継いだ。
正室は生駒親賢の養女(実父津田信成、生駒親信の元正室)。1男4女、そのうち養女2人。どちらも義父の親賢の娘であり、片方は京都町奉行などを勤めた旗本牧義珍の室、もう一人は本多正峯と婚約するが、嫁ぐ前に死去した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」