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松平信礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平信礼
時代 江戸時代中期
生誕 元文2年8月11日1737年9月5日
死没 明和7年6月16日1770年7月8日
改名 音之助→信礼
戒名 慈雲院殿仁峯宗恕大居士
墓所 埼玉県新座市野火止の平林寺
官位 従五位下、甲斐守、伊豆守
幕府 江戸幕府奏者番
三河吉田藩
氏族 大河内松平家
父母 父:松平信復、母:側室・蘭(岸田氏、国香院)
兄弟 某、信礼、某、信正本庄道揚、壬次、遠藤胤富、振(池田政香室)、悦(鍋島直益室)、元(大久保教和養女)
芳姫黒田直純の娘、本多正珍養女)
信明杉浦正直、女、静(秋田倩季室)、五百、禎(加納久堅養女、加納久周室)、鶴年(松浦清室)、品(黒田直英室)、喜鶴(永井直進室)
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松平 信礼(まつだいら のぶうや / のぶいや)は、三河吉田藩第2代藩主。松平伊豆守大河内松平家6代。

生涯

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元文2年(1737年)8月11日、初代藩主松平信復の次男(実質長男)として江戸で生まれる。寛保元年(1741年)11月1日に信礼と名乗る。信復は正室を持たなかったため、長子である信礼が嫡男とされ、寛延4年(1751年)1月15日に将軍家重御目見した。以後、父の吉田在城中は名代として公務を勤めた。宝暦元年(1751年)12月18日、従五位下・甲斐守に叙任される。宝暦12年(1762年)6月27日、駿河田中藩本多正珍の養女・芳姫を娶る。

明和5年(1768年)9月、国元にいた信復の病状悪化の知らせを受け、看病のため初めて吉田へ向かった。この時、父の死を挟んで10日間在城したが、信礼にとってのお国入りはこれが最初で最後であった。11月16日に家督を相続し、翌17日に伊豆守と改めた。

明和6年(1769年)6月15日、藩主として初めての帰国を許されるが、眩暈により旅行が困難であることを理由に3度にわたって延期願を出し、そうこうするうちに10月11日に奏者番に任ぜられたことで帰国の件はなくなった。生来病弱であった信礼は、明和7年(1770年)1月の将軍紅葉山参詣の際に御鏡餅役は務めたものの、5月下旬以降は病床に臥して全く登城できず、6月16日に死去した。享年34。

人物

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学問は父信復と同様に三浦竹渓に師事した。武芸にも励み、特に射撃の腕前がよかったという。古楽についてもまた父と同様に興味を持っており、楽書数十巻を購入した。

系譜

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父母

  • 松平信復(父)
  • 蘭、岸田氏、国香院(母) - 側室

正室

子女

参考文献

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  • 『豊橋市史』第2巻・第6巻