松平信宝 (三河吉田藩主)
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政7年9月10日(1824年10月31日)[1] |
死没 | 天保15年10月17日(1844年11月26日) |
改名 | 長之助(幼名)→信宝 |
戒名 | 寛量院殿義関文礼大居士 |
墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
官位 | 従五位下、隼人正、伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 三河吉田藩主 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平信順、母:綾瀬(金子氏、凉松院) |
兄弟 | 信宝、章次郎、某、徽(松平康寿縁女)、令、綜、貞(信宝養女)、愛(戸沢正実室、後松平直巳室) |
妻 |
縁女:敬姫(松平斉厚の娘) 正室:較姫(阿部正粹の娘) |
子 | 養子:信璋、貞(松平信璋正室、のち信璋養女) |
松平 信宝(まつだいら のぶたか/のぶとみ)は、三河吉田藩の第5代藩主。松平伊豆守系大河内松平家9代。
生涯
[編集]文政7年(1824年)、松平信順の長男として江戸谷中下屋敷で生まれる。父の正室に子がなかったため、文政9年(1826年)11月7日に嫡子となる。文政11年(1828年)11月23日、信宝と名乗る。天保8年(1837年)3月15日、初めて将軍家斉・世子家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・隼人正に叙任される。天保12年(1841年)7月、病身の信順の名代として吉田城へ入る。帰国中に鳳来山東照宮に参詣するなどし、天保13年(1842年)7月に江戸へ参勤する。
同年12月13日に信順が隠居し、家督を相続して呉服橋内上屋敷に移る。翌14日、伊豆守と改める。天保14年(1843年)4月3日、備後福山藩世嗣・阿部正粹の娘を娶る。同年6月に帰国の暇を賜るが、病気により2度の延期願いを出す。天保15年(1844年)3月2日、隠居していた信順が病死する。その後、信宝自身も病に倒れ、帰国することなく10月17日に死去する(表向きには11月20日死去と公表)。享年21。跡継ぎがいなかったため、妹の貞姫を養女とし、分家の旗本松平信敏の子の信璋を婿養子に迎えた[2]。
系譜
[編集]父母
- 松平信順(父)
- 綾瀬、金子氏、凉松院(母) - 側室
縁女
- 敬姫 - 松平斉厚の娘
正室
- 較姫 - 阿部正粹の娘
養子女