松平信敏 (大河内松平家)
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉永2年9月10日(1849年10月25日) |
別名 | 舎人(通称) |
戒名 | 恵光院殿 |
墓所 | 東京都文京区小日向の深光寺 |
官位 | 主水正→兵庫頭 |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行→京都町奉行→先手鉄砲頭→小普請奉行 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平信孟 |
妻 | 妙相院(土岐朝旨の娘) |
子 | 信璋、舎人 |
松平 信敏(まつだいら のぶとし)は、江戸時代後期の旗本。堅綱系大河内松平家8代。石高は1000石。
生涯
[編集]松平信孟の子として江戸で生まれる。文政5年(1822年)3月に父が死去したため家督を相続する。書院番を勤め、文政8年(1825年)12月7日に小納戸、文政10年(1827年)6月21日に小姓、天保4年(1833年)5月28日に徒頭、天保8年(1837年)2月9日に西丸目付となる。大御所時代が終焉してからは、天保12年(1841年)7月8日に佐渡奉行(この間佐渡への着任はなかった)、10月17日に京都町奉行、天保14年(1843年)5月30日に先手鉄砲頭となる。弘化元年(1844年)10月に本家の三河吉田藩主・松平信宝が死去し、長男の信璋が養子に入る。弘化2年(1845年)12月12日、小普請奉行となる。嘉永2年(1849年)9月10日に死去。
三河吉田藩主の実父となった信敏であったが、信璋とともに吉田藩家中からは軽視され、官名の「兵庫頭」をもじって「兵てき」と呼ばれて批判の的にされた。[1]
脚注
[編集]- ^ 『豊橋市史』第二巻p.1082-1083