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松平信敏 (大河内松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平信敏
時代 江戸時代後期
生誕 不明
死没 嘉永2年9月10日1849年10月25日
別名 舎人(通称
戒名 恵光院殿
墓所 東京都文京区小日向深光寺
官位 主水正→兵庫頭
幕府 江戸幕府佐渡奉行京都町奉行先手鉄砲頭小普請奉行
主君 徳川家斉家慶
氏族 大河内松平家
父母 父:松平信孟
妙相院(土岐朝旨の娘)
信璋舎人
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松平 信敏(まつだいら のぶとし)は、江戸時代後期の旗本。堅綱系大河内松平家8代。石高は1000石。

生涯

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松平信孟の子として江戸で生まれる。文政5年(1822年)3月に父が死去したため家督を相続する。書院番を勤め、文政8年(1825年)12月7日に小納戸、文政10年(1827年)6月21日に小姓天保4年(1833年)5月28日に徒頭、天保8年(1837年)2月9日に西丸目付となる。大御所時代が終焉してからは、天保12年(1841年)7月8日に佐渡奉行(この間佐渡への着任はなかった)、10月17日に京都町奉行、天保14年(1843年)5月30日に先手鉄砲頭となる。弘化元年(1844年)10月に本家の三河吉田藩主・松平信宝が死去し、長男の信璋が養子に入る。弘化2年(1845年)12月12日、小普請奉行となる。嘉永2年(1849年)9月10日に死去。

三河吉田藩主の実父となった信敏であったが、信璋とともに吉田藩家中からは軽視され、官名の「兵庫頭」をもじって「兵てき」と呼ばれて批判の的にされた。[1]

脚注

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  1. ^ 『豊橋市史』第二巻p.1082-1083

参考文献

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  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典 第5巻』(東洋書林、1997年)
  • 越佐人物誌(牧田利平編 野島出版 昭和47年(1972年))