松平正朝 (大河内松平家)
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永6年6月1日(1629年7月21日) |
死没 | 天和2年6月3日(1682年7月7日) |
改名 | 松平季綱→秋元正朝→松平正朝 |
別名 | 喜内→主水(通称) |
戒名 | 還邦院殿夢庵宗覚居士 |
墓所 | 駒込蓮光寺 |
官位 | 従五位下、紀伊守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
氏族 | 大河内松平家→秋元氏→大河内松平家 |
父母 |
父:松平正綱 母:宗寿院(饗庭氏、家女) 養父:秋元泰朝 |
兄弟 |
利綱、正信、正光、正朝、 女(堀直輝室)、女(本多利長室)、 女(松平重正室)、女(溝口重雄室)、 女(三宅康勝室)、女(稲葉正能室)、 女(榊原清照室)、女(神保茂明室) |
妻 | 正室:了性院(大久保幸信の娘) |
子 |
成綱、浅野正氏、ふう、べん、しま 養子:為政 |
松平 正朝(まつだいら まさとも)は、江戸時代前期から中期の旗本(寄合)。正朝系大河内松平家初代。石高は3500石。
生涯
[編集]相模甘縄藩主・松平正綱の五男として生まれ、上野総社藩主・秋元泰朝の養子となる。寛永18年(1641年)8月9日、初めて将軍家光に拝謁し、生後間もない竹千代(後の徳川家綱)の小姓となる。その後、離縁して実家大河内松平家に戻る。
慶安元年(1648年)7月11日、父の遺領のうち三河国幡豆郡内の新田3000石を分知される。在所には幡豆陣屋(別名:中村陣屋、欠陣屋)を築き、明治に至るまで正朝の子孫が支配した。慶安4年(1651年)8月16日、従五位下紀伊守に叙任される。寛文4年(1664年)12月28日に500石加増される。寛文10年(1670年)10月15日、病により職を辞して寄合となる。延宝6年(1678年)12月30日に嫡子成綱が死去したため、次男浅野正氏の長男為政を養子とする。天和2年(1682年)6月3日に死去。享年54。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第二百五十七
- 『幡豆町史 資料編2 近世』