大河内秀綱
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大河内 秀綱(おおこうち ひでつな、天文15年(1546年) - 元和4年9月13日(1618年10月31日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将、江戸時代初期の旗本。寺津城主[注釈 1]。大河内信貞の子。母は小見頓斎の娘。通称は孫太郎、金兵衛。子は大河内久綱、松平正綱、秋元泰朝室、由利姫(永井直勝側室)。
略歴
[編集]はじめ吉良義昭に仕え、三河一向一揆における東条城の戦い(永禄7年(1564年))などで戦功をあげる[1]。義昭の没落後、徳川家康に仕え[注釈 2]、三河、遠江の租税に関わる事務に携わり、遠江稗原(静岡県磐田市)を領する。家康の関東移封に従い、武蔵国高麗郡で700石余を領し、代官として活躍[注釈 3]。晩年は剃髪し「休心」と号した。
元和4年(1618年)9月13日没。享年73。法名は金剛院殿雄岳宗英大居士。墓は愛知県西尾市寺津町金剛院及び埼玉県新座市の平林寺にある。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 秀綱の居所について、『額田郡志』、『三河国二葉松』では額田郡(大平村大河内郷、洞村)としている。このことから大河内氏支流から宗家へ養子に入った可能性もある。
- ^ 吉良家中での確執に巻き込まれ、伊奈忠次の配下となり、その後、家康に仕えたという説もある。
- ^ 埼玉県大里郡寄居町大字鉢形に「大河内金兵衛陣屋」の跡が残っていたが、遺構はほぼ消滅した。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『西尾市史2 古代中世近世上』[要文献特定詳細情報]