松平光重 (戸田松平家)
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 元和8年(1622年) |
死没 | 寛文8年7月30日(1668年9月6日) |
改名 | 孫四郎(幼名)、光重 |
別名 | 戸田光重 |
墓所 | 岐阜県本巣市郡府の智勝院 |
官位 | 従五位下・丹波守 |
幕府 | 江戸幕府大坂城代 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 播磨明石藩主→美濃加納藩主 |
氏族 | 戸田松平家 |
父母 |
父:松平忠光、母:菅谷氏 養父:松平庸直 |
兄弟 | 光重、二の丸殿 |
妻 |
正室:戸田氏鉄の養女 側室:栗山氏 |
子 | 寧、光永、戸田光正、冨、戸田光直 |
松平 光重(まつだいら みつしげ)は、江戸時代前期の大名。播磨国明石藩の第2代藩主、美濃国加納藩の初代藩主。戸田氏の嫡流にあたる戸田宗家(仁連木戸田家)18代当主。戸田松平家3代。戸田松平家初代・松平康長の嫡男であった松平忠光の長男。
生涯
[編集]寛永11年(1634年)6月、明石藩主であった叔父の庸直(戸田松平家2代)が嗣子なく死去した。改易となるところであったが、祖父の康長は将軍家光に幼少時から仕え、勲功も多かったことから、光重に家督の相続が許され、遺領を与えられた。同16年(1639年)、明石より転じて美濃国加納城に入り、加納1万石を合わせて7万石となった。明暦2年(1656年)、大坂城代となり、万治元年(1658年)まで務めた。同3年(1660年)、再び大坂城代を務め、寛文元年(1661年)閏8月に罷め、同8年(1668年)7月晦日に没した。享年47。
系譜
[編集]父母
正室
側室
- 厚見氏
- 栗山氏
- 上原氏
- 尾花氏
子女
- 松平光永(長男)生母は栗山氏
- 戸田光正[1](次男)生母は上原氏
- 戸田光直[2](三男)生母は尾花氏
- 寧 ー 今城定淳(冷泉為継)室(長女)生母は厚見氏(側室)
- 冨 ー 安藤重博正室(次女)生母は厚見氏(側室)