松平光煕
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝2年(1674年) |
死没 | 享保2年9月4日(1717年10月8日) |
改名 | 千虎(幼名)→光煕 |
別名 | 孫四郎(通称) |
墓所 | 岐阜県本巣市郡府の智勝院 |
官位 | 従五位下、河内守、丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 美濃加納藩主→山城淀藩主 |
氏族 | 戸田松平家 |
父母 | 父:松平光永、母:駒井氏(側室) |
兄弟 | 光煕、戸田光規 |
妻 | 正室:阿部正武の娘 |
子 | 光慈、戸田光清、光雄(五男)、娘(今城定種室)、娘(戸田煕教室) |
松平 光煕(まつだいら みつひろ)は、美濃加納藩の第3代藩主。山城淀藩の初代藩主。戸田松平家5代。諱は光熙と記される場合も多い。
生涯
[編集]延宝2年(1674年)、加納藩第2代藩主・松平光永の長男として美濃国加納に生まれる。天和3年(1683年)3月15日、将軍・徳川綱吉に御目見する。元禄元年12月25日(1690年)、従五位下・河内守に叙任する。元禄8年(1695年)5月12日、綱吉が阿部正武(光煕の正室の父)の屋敷に御成りの際、将軍の前で『論語』を講じる。
宝永2年(1705年)4月15日、家督を継いで加納藩主となる。弟の光規に蔵米3000石を分け与える。4月21日、官途を丹波守と改める。宝永3年(1706年)、藩主として初めて城地に赴いた。宝永5年(1708年)、幕命により禁裏造営に従事し、宝永6年(1709年)、功により朝廷より広次の御太刀および堂上家寄合書の『拾遺集』を下賜され、幕府からも時服を授かる。宝永8年(1711年)2月15日、6万石で山城淀に移封された。山城の他、河内、摂津、近江国にも領地があった。享保2年(1717年)9月4日に死去した。享年44。
跡を三男の光慈が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 阿部正武の娘
側室
- 都筑氏
- 小野氏
- 大塚氏
子女
脚注
[編集]- ^ 分家の大身旗本の北方戸田家を継ぐ。室は文殊戸田家の娘。