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松平光煕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平光煕
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝2年(1674年
死没 享保2年9月4日1717年10月8日
改名 千虎(幼名)→光煕
別名 孫四郎(通称
墓所 岐阜県本巣市郡府の智勝院
官位 従五位下、河内守丹波
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
美濃加納藩主→山城淀藩
氏族 戸田松平家
父母 父:松平光永、母:駒井氏(側室)
兄弟 光煕戸田光規
正室:阿部正武の娘
光慈戸田光清光雄(五男)、娘(今城定種室)、娘(戸田煕教室)
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松平 光煕(まつだいら みつひろ)は、美濃加納藩の第3代藩主。山城淀藩の初代藩主。戸田松平家5代。光熙と記される場合も多い。

生涯

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延宝2年(1674年)、加納藩第2代藩主・松平光永の長男として美濃国加納に生まれる。天和3年(1683年)3月15日、将軍・徳川綱吉御目見する。元禄元年12月25日(1690年)、従五位下・河内守に叙任する。元禄8年(1695年)5月12日、綱吉が阿部正武(光煕の正室の父)の屋敷に御成りの際、将軍の前で『論語』を講じる。

宝永2年(1705年)4月15日、家督を継いで加納藩主となる。弟の光規に蔵米3000石を分け与える。4月21日、官途を丹波守と改める。宝永3年(1706年)、藩主として初めて城地に赴いた。宝永5年(1708年)、幕命により禁裏造営に従事し、宝永6年(1709年)、功により朝廷より広次の御太刀および堂上家寄合書の『拾遺集』を下賜され、幕府からも時服を授かる。宝永8年(1711年)2月15日、6万石で山城淀に移封された。山城の他、河内摂津近江国にも領地があった。享保2年(1717年)9月4日に死去した。享年44。

跡を三男の光慈が継いだ。

系譜

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父母

正室

側室

  • 都筑氏
  • 小野氏
  • 大塚氏

子女

脚注

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  1. ^ 分家の大身旗本の北方戸田家を継ぐ。室は文殊戸田家の娘。