稲葉正守
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和4年1月29日(1804年3月10日)[1] |
死没 | 明治11年(1878年)7月29日[要出典] |
改名 | 鉄弥(幼名)→正守 |
別名 | 大学 |
官位 | 従五位下、従四位下、丹後守、佐渡守、内匠頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 山城淀藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 父:稲葉正諶、養父:稲葉正発 |
兄弟 | 正備、正選、正守、広幡前秀室、内藤頼以正室、大岡忠固正室 |
妻 | 藤堂高兌の娘 |
子 | 戸田氏彬正室、養子:正誼 |
稲葉 正守(いなば まさもり)は、山城淀藩の第10代藩主。正成系稲葉家宗家14代。官位は従五位下、従四位下、丹後守、佐渡守、内匠頭。幼名は鉄弥。通称は大学。
経歴
[編集]第7代藩主・稲葉正諶の七男として誕生した。文政6年(1823年)6月25日、甥で先代藩主の正発が嗣子無くして死去したため、跡を継いだ。同年9月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政7年12月16日(1825年)、従五位下・丹後守に叙任する。後に内匠頭、佐渡守に改める。天保4年(1833年)2月18日、奏者番に就任する。天保9年(1838年)6月1日、寺社奉行に就任する。天保11年12月16日(1841年)、従四位下に昇進する。天保13年(1842年)4月24日、寺社奉行を退任する。同年7月20日に隠居し、養子の正誼に家督を譲った。明治2年(1869年)2月、東京から淀に居所を移す。明治11年7月29日、病死する。[要出典]
系譜
[編集]父母
正室
- 藤堂高兌の娘
子女
- 戸田氏彬正室
養子