松平直常
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝7年10月13日(1679年11月16日) |
死没 | 延享元年5月10日(1744年6月20日) |
改名 | 松千代丸(幼名)、直常(初名)、直武、直常 |
別名 | 処次郎(通称) |
神号 | 高秀神霊 |
戒名 | 要体院殿真光浄影大居士 |
墓所 | 兵庫県明石市人丸町の長寿院 |
官位 | 従五位下左兵衛佐、従四位下左兵衛督、侍従、但馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗 |
藩 | 播磨明石藩主 |
氏族 | 越前松平家支流明石松平家 |
父母 | 松平直明、松平定頼養女仙姫 |
兄弟 | 直常、稲葉恒通正室 |
妻 | 松平清照娘浅姫、松田友成養女幾代子 |
子 | 直純 |
松平 直常(まつだいら なおつね)は、江戸時代中期の大名。播磨国明石藩2代藩主。官位は従四位下侍従、但馬守。直良系越前松平家3代。
生涯
[編集]延宝7年(1679年)、越前国大野藩主・松平直明の長男として江戸にて誕生。天和元年(1681年)、松千代丸から処次郎と改名する。天和2年(1682年)、直明が明石藩へ転封となる。元禄3年(1690年)、元服して諱を直常と名乗り、5代将軍・徳川綱吉に御目見した。その後、直武と改名したが、再び直常に戻した。
元禄6年(1693年)、従五位下、左兵衛佐を叙任する。元禄13年(1700年)、伊勢国桑名藩主・松平忠雅の姉・浅姫を正妻として迎えた。元禄14年(1701年)、直明の隠居に伴い家督を相続した。宝永元年(1704年)、和泉国岸和田藩主・岡部長泰、摂津国三田藩主・九鬼隆久と共に幕府より大和川改修工事を命ぜられる。宝永4年(1707年)、従四位下、左兵衛督に昇進する。正徳元年(1711年)には大和川改修工事に次いで朝鮮通信使接待役に任ぜられた。これら使役により、先代より窮していた藩の財政は一層困窮することとなった。享保17年(1732年)に享保の大飢饉が起こると、明石藩もイナゴの被害を受けた。享保18年(1733年)、侍従に任ぜられた。元文5年(1740年)、但馬守に改称する。
寛保2年(1742年)、脳卒中となり右足が不自由になった。このため、翌寛保3年(1743年)に家督を長男・直純に譲って隠居した。延享元年(1744年)明石城二の丸にて病没。享年66。
系譜
[編集]- 父:松平直明(1656-1721)
- 母:仙姫 - 鏡智院、松平定頼の養女、酒井忠朝の娘、墓所は愛媛県松山市の法華寺の京極家墓所
- 正室:浅姫 - 松平清照の娘
- 室:幾代子 - 松田友成の養女
- 長男:松平直純(1727-1764)
参考文献
[編集]- 黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年