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西尾忠永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
西尾 忠永
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正12年(1584年
死没 元和6年1月14日1620年2月17日
改名 忠康、忠永
戒名 月海岫雲清光院
墓所 神竜寺(現・茨城県土浦市)、遍光寺(駿河国田中)、龍眠寺遠江国横須賀)
官位 主水(主水正)、従五位下丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康
武蔵国原市藩藩主→上野国白井藩藩主→常陸国土浦藩藩主
氏族 酒井氏西尾氏後期東条吉良氏庶流)
父母 父:酒井重忠、母:山田重辰の娘
養父:西尾吉次
兄弟 酒井忠世酒井忠季忠永酒井忠正
正室:西尾吉次の娘
忠照、女子(酒井忠世養女)、女子(稲垣重昌室、のち木下俊治に嫁す)、忠知、女子(増田道意某妻)
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西尾 忠永(にしお ただなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名武蔵国原市藩藩主、上野国白井藩藩主、常陸国土浦藩藩主。横須賀藩西尾家2代。はじめ忠康[1][2]。主水[1]主水正[3])。

生涯

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天正12年(1584年)、徳川氏の家臣・酒井重忠の三男として三河国西尾で生まれる[1][2]。母は山田重辰の娘[1]。実兄に江戸幕府大老酒井忠世がいる。

徳川家康に仕え、2000石の所領を与えられた[1]慶長4年(1599年)、西尾吉次の娘を娶った[1]。同5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いに従軍した[1]

慶長8年(1603年)11月25日、従五位下丹後守に叙任[1]。のち奏者を務める[1]。その後、岳父・吉次の養子となった[1]。慶長11年(1606年)8月、吉次が死去したため、同年10月7日、遺領(武蔵国足立郡原市5000石、美濃国内7000石)を継いだ[1](原市藩)[4]

慶長19年(1614年)10月、大坂冬の陣のとき供奉し、元和元年(1615年)の大坂夏の陣にも従軍した[1]

元和2年(1616年)、上野国群馬郡内で2万石を領し、白井城を居所とした[1][2](白井藩)[5]

元和4年(1618年)8月、常陸国新治郡内に2万石で移封となり、土浦城城主となった[1][3][2](土浦藩)[6]。同5年(1619年)、それまで勝軍木ぬるで曲輪(郭)の北部にあった滝泉寺(現・茨城県土浦市)を、城東の現在地(鷹匠町)に移した[7]。また、城西の土塁上にあった八幡社をここに合祀し、修行を行い、天下泰平と武門繁栄を祈願した[8]

元和6年(1620年)1月14日、土浦で死去[1][9]。37歳[1]法号は月海岫雲清光院[1]。土浦・神龍寺に葬られた[1][9]。のち、駿河国田中の遍光寺に改葬し、さらに遠江国横須賀龍眠寺に移った[1]

跡を子・忠昭が継いだ[9]

系譜

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(出典は『寛政重修諸家譜[10]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 寛政譜 1923, p. 1129.
  2. ^ a b c d 山田 1982, p. 256.
  3. ^ a b 土浦市役所 1975, p. 337.
  4. ^ 児玉・北島 1977, p. 142.
  5. ^ 児玉・北島 1977, p. 122.
  6. ^ 児玉・北島 1977, pp. 66–67.
  7. ^ 土浦市役所 1975, p. 338,409.
  8. ^ 土浦市役所 1975, p. 409.
  9. ^ a b c 土浦市役所 1975, p. 338.
  10. ^ 寛政譜 1923, pp. 1129–1130.

参考文献

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