小田原一家5人殺害事件
小田原一家5人殺害事件 | |
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場所 | 日本・神奈川県小田原市井細田42番地[注 1][1]・銭湯「田浦湯」経営者宅[注 2][8][9] |
座標 | |
標的 | 銭湯の経営者一家6人[8] |
日付 |
1949年(昭和24年)9月14日[8] 1時30分ごろ[8] (UTC+9) |
概要 | 隣家(銭湯)の女湯を覗いていた少年Sが、銭湯の主人により覗きを妨げられたことを逆恨みし、就寝中の主人一家6人を襲撃して5人を斬り殺した[10]。 |
攻撃手段 | 鉈・肉切り包丁で斬りつける[8] |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | 鉈(薪割り用)・肉切り包丁[8] |
死亡者 | 5人[8] |
負傷者 | 1人[8] |
犯人 | 少年S[3][11](事件当時18歳)[3] |
動機 | 事件の3か月前に被害者宅(銭湯)の女湯を覗いていたところを主人に見つかり、覗きを妨げられたことへの逆恨み[注 3][8] |
対処 | 犯行後に加害者Sが自首[1]。その後逮捕・起訴 |
刑事訴訟 | 死刑(上告棄却により確定・少年死刑囚/後に恩赦で無期懲役に減刑)[12] |
管轄 | 足柄下地区警察署[1](国家地方警察神奈川県本部)[注 4] |
小田原一家5人殺害事件(おだわらいっかごにんさつがいじけん)とは、1949年(昭和24年)9月14日に神奈川県小田原市井細田42番地[注 1]で発生した大量殺人事件[1]。当時18歳4か月[注 5]の少年Sによる犯行で[14]、銭湯を経営していた男性A(当時45歳)ら一家5人が殺害され、男性夫婦の娘1人が重傷を負った[8]。
犯人Sは強盗殺人・同未遂罪の被告人として起訴され、刑事裁判では殺人・同未遂罪を認定された[11]。Sは1951年(昭和26年)に最高裁で死刑が確定したが[18]、サンフランシスコ講和条約発効を記念した恩赦により無期懲役刑に減刑され[12]、1970年(昭和45年)3月に宮城刑務所を仮出所した[19]。しかし出所後の1984年(昭和59年)、Sは東京都杉並区内で女子中学生2人への殺人未遂事件を起こして[20]懲役8年の刑に処され、仮釈放も取り消された[21]。
犯人S
[編集]犯人の男S[11][3]は1931年(昭和6年)5月2日生まれ[3][18](事件当時18歳)[注 5][14]で、本籍地は神奈川県横浜市西区南幸町二丁目50番地[注 6][3]。事件当時の住居は小田原市井細田42番地[注 1][2][3](事件現場の隣家)[注 7][2]。Sは両親と早く死別し、弟と2人で叔父に引き取られ[8]、地元の町工場で旋盤工として働いていたが[5]、1949年2月に解雇され[8]、犯行当時は失業状態だった[5]。また、1947年(昭和22年)には窃盗で検挙されたこともあった[8]。
事件の経緯
[編集]加害者Sは事件の3か月前[8]、自宅2階の窓から現場となった隣家の銭湯「田浦湯」の女湯を覗いていたところ、経営者である男性A(当時45歳)に発見されて注意された[23]。それ以降「田浦湯」は女湯覗きの防止策として、隣家との境界にある薪置場の屋根の上に目隠し用の簾を立てたが、Sはこれを逆恨みし[24]、Aの殺害を決意[注 3][8]。事件の1か月前に肉切り包丁[8](刃渡り約22 cm)[10]を購入し、これを研いで準備していた[8]。
Sは事件当日(1949年9月14日)深夜1時ごろ[8]、予め用意してあった包丁を持ち、被害者宅1階の浴場通用口から侵入した[10]。そして包丁に加え、薪置場にあった薪割り(鉈)を持ち[25]、就寝中だった男性A(当時45歳)とその妻B(当時42歳)[注 8]、Bの母親C(当時80歳/Aの義母およびD・E・Fの祖母)[注 9]の3人を鉈で殴り殺した[14]。さらにA・B夫婦の子供2人(次女D〈当時8歳〉[注 10]・長男E〈当時3歳〉[注 11])の首にそれぞれ電気コードを巻きつけ、その首を持っていた肉切り包丁で刺して殺害し、長女F(当時18歳)[注 12]も頭部を鉈で殴って殺そうとした[14]。一連の犯行に要した時間は約40分で[注 13][10]、Fを除く一家5人は即死し[8][9]、一命を取り留めたFも瀕死の重傷を負った[注 14][8][9]。
Sは犯行後、タンスを探して紙入れ(600円入り)を奪い、そのまま帰宅したが、同居していた叔父に犯行を打ち明け、同日9時30分に[8][9]足柄下地区警察署[注 4]へ自首した[1]。
刑事裁判
[編集]加害者Sは強盗殺人罪および同未遂罪で起訴されたが[11]、刑事裁判で認定された罪状は殺人罪および同未遂罪だった[11]。
被告人Sの公判は横浜地方裁判所小田原支部で1949年10月から始まり[27][28]、同地裁支部(三淵乾太郎[注 15]裁判長)は1950年(昭和25年)1月12日[29]、被告人Sに対し死刑判決を言い渡した[注 16][11][14][30][31]。被告人Sは判決直後に控訴したが、後に「贖罪したい」として控訴取り下げを申し立てた[注 17][29]。Sは当時、度々拘置所を訪れ接見しに来た弁護人から説得を受けても翻意せず、拘置所長も最終的に控訴取り下げの手続きを取ろうとしていたところ、その話を聞いた三淵が同月2月6日に拘置所を訪れてSを説得し[注 18]、翻意させた[29]。このため、控訴審は継続されたが[28]、1951年(昭和26年)3月20日には東京高等裁判所で控訴棄却判決(第一審の死刑判決を支持する判決)が言い渡された[3][11][14][28]。Sは判決を不服として上告したが[28]、1951年(昭和26年)9月6日に最高裁判所第一小法廷(澤田竹治郎裁判長)は「死刑制度は憲法で規定された『残虐な刑罰』には該当しない。被告人Sは犯行当時18歳以上であり、犯行時18歳未満の少年への死刑適用を禁じた少年法第51条の規定は適用できない」として被告人Sの上告を棄却する判決を言い渡したため[32]、Sの死刑が確定した[12]。
恩赦減刑
[編集]死刑確定後、死刑囚となったSは東京拘置所から仙台拘置支所へ移送された[注 20][12]。しかし、同年8月に締結されたサンフランシスコ講和条約[注 21]を記念して、戦後4回目となる恩赦[12][注 22](平和条約発効恩赦)が実施され[44]、Sを含む死刑囚12人[注 23]もその恩赦の対象となった[40]。これにより、死刑囚S(当時21歳)は1952年(昭和27年)9月23日付で、政令恩赦(減刑令)により死刑から無期懲役に減刑された[46]。
それ以降、受刑者Sは仙台拘置支所から宮城刑務所[注 24]へ移監され[12]、1970年(昭和45年)3月に38歳で仮出所するまで、模範囚として[注 25]働いていた[19]。
仮釈放後
[編集]仮出所後、Sは世話をする人間に恵まれ、東京都内の印刷会社に就職した[注 26][19]。
一方、Sは横浜市南区庚台のアパートに居住しつつ、1982年(昭和57年)ごろからは家出中の少女X(1984年の事件当時は13歳・中学2年生)と同棲していた[49]。しかし1984年(昭和59年)7月8日、少女Xは突然Sのアパートを飛び出し、中学時代に親しくしていた東京都杉並区在住の少女Y(当時14歳・中学3年生)[注 27]を頼った[51]。S(当時53歳)は同日10時ごろにY宅を訪れ、Xに対し「戻ってくれ」と懇願したが、Xは「歳が違いすぎる。もう別れる」と応じず、遊びに来ていたYの同級生ら5人からも詰め寄られた[52]。これに憤激し、殺意を抱いたSは16時ごろにY宅を去ったが、明大前駅(京王帝都電鉄〈現:京王電鉄〉へ戻る途中、商店街の金物屋で登山ナイフ(刃渡り約10 cm)を購入[52]。そして18時ごろにXを公衆電話で呼び出し、杉並区永福一丁目(明治大学和泉校舎正門前・甲州街道の歩道橋上)[注 28]で、Xと連れ立ったYの2人を登山ナイフで襲い[50]、2人に怪我[注 29]を負わせる事件を起こした[53]。Sはそのまま横浜の自宅アパートに帰宅したが[21]、翌日(1984年7月9日)2時40分に自宅付近で高井戸警察署(警視庁)の署員に殺人未遂容疑で緊急逮捕された[注 30][54]。そして同事件で殺人未遂罪に問われた被告人Sは、同年12月19日に東京地方裁判所刑事第15部(柴田孝夫裁判長)で懲役8年(求刑:懲役12年)の実刑判決を言い渡された[注 31][55]。これにより仮釈放も取り消され、Sは1985年(昭和60年)末に無期懲役+懲役8年の刑で宮城刑務所に移送された[21]。
Sのその後については明確にはわかっていないが[56][5]、同事件を取材した斎藤充功 (2018) は「2009年(平成21年)2月15日23時10分ごろ、宮城刑務所で70歳代の男性受刑者が首吊り自殺した」と言及[注 32]した上で[57]、「宮城刑務所は無期懲役囚を含む長期刑の受刑者を収容しており、その受刑者は70歳代だった。この受刑者は本事件加害者のS[注 33]である可能性がある」と指摘している[59][17]。
事件で唯一生き残った女性(Aの長女F・事件当時19歳)は83歳となった2014年(平成26年)夏に斎藤から取材を受け、「Sが恩赦で死刑を免れた後、仮釈放後に再犯したことは知っている。Sは一度、宮城刑務所にいる際に保護司を通じて『出所したら(被害者たちの)墓参りをしたい』と連絡してきたが、自分は『仇に墓参りをしてほしくない』と断った」[60]「(先述の)自殺した男がSだとしたら残念だ。自分の家族は虫けらのように殺されたのだから、Sも一生刑務所に入れられて苦しみ、獄死すればいい」と述べている[61]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c 事件現場の住所は「小田原市井細田42番地」で[1]、隣家であった加害者S宅と同番地だった[2][3]。事件現場一帯の住所は後年の住居表示により、小田原市扇町一丁目となっている[4][2]。
- ^ 事件現場となった「田浦湯」は小田原駅(JR東海道線)から北東約3 kmの場所に位置する[4][2]。同店は1927年(昭和2年)に創業し、戦中も営業していた[2]。事件後、約1か月後に営業を再開したが[5]、事件で唯一生き残った長女Fの息子(殺害された経営者Aの孫)が継がなかったため[6]、2010年代に廃業した[7][2]。廃業の時期は斎藤充功 (2014) では「2013年(平成25年)9月」[7]、斎藤 (2018) では「2011年(平成23年)3月」となっている[2]。
- ^ a b 最高裁 (1983) によれば、動機は「隣家の夫婦に馬鹿にされたと憤激し、同人らを殺害しようと企てた」となっている[14]。
- ^ a b 旧警察法下によるもの(1954年〈昭和29年〉の新警察法公布により廃止)。2020年(令和2年)10月現在、神奈川県小田原市を管轄する警察署は小田原警察署(神奈川県警察の傘下)である[13]。
- ^ a b 加害者Sの年齢は最高裁の資料 (1983) では「18歳4か月」となっている[14]一方、事件当時の『神奈川新聞』 (1949) や、再犯を報道した『毎日新聞』 (1984) では「当時19歳」となっており[8][15]、前者の記事を引用した斎藤充功の著書(2014年および2018年)でも「当時19歳」とされている[16][17]。
- ^ 横浜市西区南幸町二丁目50番地(加害者Sの本籍地)は1965年(昭和40年)7月1日に住居表示を実施し、横浜市西区南幸二丁目16番1号となった[22]。同地には、1972年 - 2019年までダイエー横浜西口店が所在していた。
- ^ 加害者S宅は被害者一家の家(田浦湯)の西隣に建っていた[2]。
- ^ 妻Bの年齢は最高裁(1981年および1983年)では「当時42歳」と[11][14]、『神奈川新聞』 (1949) および斎藤充功 (2018) では「当時43歳」となっている[8][17]。
- ^ Aの義母Cの年齢は最高裁(1981年および1983年)では「当時80歳」と[11][14]、『神奈川新聞』 (1949) および斎藤充功 (2018) では「当時81歳」となっている[8][17]。
- ^ 次女Dの年齢は最高裁(1981年および1983年) では「当時8歳」と[11][14]、『神奈川新聞』 (1949) および斎藤充功 (2018) では「当時7歳」となっている[8][17]。
- ^ 長男Eの年齢は最高裁(1981年および1983年)では「当時3歳」と[11][14]、『神奈川新聞』 (1949) および斎藤充功 (2018) では「当時4歳」となっている[8][17]。
- ^ Aの長女Fの年齢は最高裁(1981年および1983年)では「当時18歳」と[11][14]、『神奈川新聞』 (1949) および斎藤充功 (2018) では「当時19歳」となっている[8][17]。
- ^ なお、斎藤充功 (2018) では犯行の経緯について「Sはまず6畳間で寝ていたA・B夫婦と次女D・長男Eの4人を薪割りで撲殺し、次いで隣室の8畳間でAの義母Cを薪割りで撲殺、長女Fも肉切り包丁で後頭部・顔面を切りつけた」と述べている[10]。
- ^ 長女Fの切り傷は頭部・胸部(乳房の下)・顎・踝付近に各2か所ずつ(計8か所)におよんだが、特に胸の切り傷は心臓からわずか2 cmまで達していた[26]。Fは病院に2か月入院し[26]、事件から3年後の1952年(昭和27年)に銭湯の仕事に復帰したが[5]、足(踝付近の傷)は事件から65年後(2014年夏)に斎藤から取材を受けた際もケロイド状の痕として残っていた[26]。
- ^ 三淵乾太郎は三淵忠彦(当時:最高裁判所長官)の長男で、『朝日新聞』記者からの取材に対し、被告人Sに控訴を勧めた件について「自分は死刑には反対だが、最高裁が『死刑は残酷な刑罰ではない』という判決を出している以上、裁判官としては自分の心情だけで死刑宣告を拒否することは許されない。公の立場からは(Sを)死刑にしても、自分の立場からは大いに同情した。絶対的に死を見つめなければならない死刑囚の立場にも同情している。Sの場合、年少であるところに問題があると思う」と述べている[29]。
- ^ 第一審判決宣告日について、最高裁の資料(1981年および1983年)や村野薫 (1990) では「1950年(昭和25年)1月12日」となっている[11][14][30]。
- ^ 三淵が面会に来た旨が『朝日新聞』朝刊で報じられた日(1950年2月9日)から数日前のこと[29]。
- ^ Sは当初、控訴を勧める三淵に対し「控訴しろといわれるあなたが、なぜ死刑の判決を下したのですか」と反問したが、三淵は「判決は合議制で決めることだし、その中には世論やいろいろの法規なども加味されるから、あのような結論(死刑)になったのだ。きょうの三淵は裁判官でなく、一個の人の民としての気持から訪ねて来た。私の行動は、あるいは法廷の威信を汚すものと強い批判を受けるかも知れないが、いまの自分は、そんなことを考慮するより、人間一人を救いたい気持でいっぱいだ」と諭した[29]。
- ^ 葛飾拘置支所は1958年10月31日付で廃止[37]。
- ^ 東京拘置所は1945年(昭和20年)に巣鴨の施設がGHQに接収されたため[33]、同年11月に拘置所の機能を小菅刑務所(現在の東京拘置所)内の一区画(舎房区)に移転し、「葛飾拘置支所」と称していた[34]。同年から1963年(昭和38年)まで同所に収監されていた死刑囚は死刑確定後、一定期間が経過すると、小菅刑務所舎房区から刑場(死刑執行設備)のある宮城刑務所へ移送され、同所で死刑を執行されていた[35](通称「宮城送り」[33]および「仙台送り」[36])。その後、東京拘置所(巣鴨)は1958年(昭和33年)10月にGHQの接収から復帰したが[注 19][34]、1966年(昭和41年) - 1970年(昭和45年)の5年間は、同所内の死刑囚は死刑執行日当日に巣鴨から刑場を有する小菅刑務所へ移送されていた[38]。その後、1971年(昭和46年)3月20日には小菅刑務所が廃止され、同所跡地に東京拘置所が移転した[39]。それ以降、東京拘置所(小菅)の死刑囚は同所内で死刑を執行されている[34]。
- ^ 同条約は1952年4月28日付で効力発生。
- ^ この恩赦は大赦444,208人、特赦1,623人などと大規模なものだった[40]。対象は刑の確定者のみで[41]、死刑囚の場合は殺人罪もしくは尊属殺人罪のみが対象となり、2つ以上の別の刑罰が課されていたり[42]、強盗殺人罪などに問われたりした者は対象外だった[43]。
- ^ その人数については他に「14人」「24人」とする説もある[44]。また、同様に平和条約発効恩赦の対象として無期懲役に減刑された死刑囚には和歌山一家8人殺害事件(1946年1月29日に発生)の死刑囚がいる[45]。この元死刑囚は恩赦減刑後、1952年5月から大阪刑務所で服役し、近畿地方更生保護委員会から仮釈放を認められ、1968年(昭和43年)4月10日(恩赦から約16年後)に仮出所した[44]。
- ^ 宮城刑務所は仙台拘置支所に隣接している[47][48]。
- ^ 斎藤充功 (2018) は「Sは宮城刑務所内で印刷工として働き、仮出所後は刑務所で覚えた技術を活かして印刷会社に就職した」と述べている[19]。
- ^ その後は(1984年の事件まで)職を転々としていたが、職場での勤務態度は真面目だった[19]。
- ^ 少女Y(事件当時・杉並区和泉二丁目在住)はXの小中学校時代の先輩で、1983年(昭和58年)8月までS宅のそばに住んでおり、出入りがあった[50]。
- ^ 明大前駅付近[20]。被害者Y宅から百数十メートル離れた場所[50]。
- ^ Xは首・背中など9か所を刺されて重傷を負い、Yも首・左脇腹などに約3か月の怪我を負った[20]。2人は玉川上水公園などを走ってY宅まで逃げたが、途中でも追いかけてきたSに刺され[50]、19時10分ごろに公園内で倒れている2人を目撃した近隣住民が110番通報した[52]。
- ^ 取り調べに対し、被疑者Sは「Yが自分とXの仲を引き裂こうとしたと思い、2人とも殺すつもりだった」と容疑を認めた[54]。
- ^ 東京地裁 (1984) は同判決の理由で「妄執の虜となった挙句、2人の少女を殺そうと執拗に何度も刺すなど、犯行は凶悪。しかし(被害者たちの)怪我は軽く、仮釈放は取り消され、(Sも)今は反省している」と指摘した[55]。
- ^ 引用元は『産経新聞』2009年2月16日付の記事[4][57]。インターネット版のニュース(2009年2月16日付配信)でも同様の記事が配信されている[58]。
- ^ Sは2009年2月15日時点で77歳。
出典
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参考文献
[編集]- 最高裁判所「9月6日判決 昭和26年(あ)第1860号 判決 本籍 横浜市西区南幸町二丁目五〇番地 住居 小田原市井細田四二番地 無職 S 昭和六年五月二日生」『最高裁判所裁判集 刑事 昭和26年9月(上)』第52号、1951年、101-104頁、doi:10.11501/1363904。 - 「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧可能(同文献のコマ番号58 - 60が該当ページ)。
- 「付録 死刑事件判決総索引」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、137頁、NCID AN00336020。 - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵
- 「検察官の上告趣意:別表 犯時少年の事件に対し死刑の判決が確定した事例」『最高裁判所刑事判例集』第37巻第6号、最高裁判所判例調査会、1983年、659-689頁。 - 永山則夫(連続射殺事件)以前に戦後、死刑が確定した少年事件(少年死刑囚)の一覧表(事件および裁判の概要・被告人の年齢など)が掲載されている。本事件の死刑囚S(13番目)は667 - 668頁に「殺人、同未遂事件」として掲載されている。
- 村野薫『日本の死刑』(第1版第1刷発行)柘植書房、1990年11月25日。ISBN 978-4806802983。
- 斎藤充功 著「【第一章】悪魔の所業 神奈川「一家5人斬殺事件1949 「小田原銭湯殺人事件」犯人の少年Aは再犯後獄中自殺していた?」、中園努(編集人) 編『ザ・歴史ノンフィクション 戦後日本の大量猟奇殺人 教科書には載せられない悪魔の事件簿 その”黒い霧”に隠されたタブーの正体』41号(初版第1刷発行)、ミリオン出版(発行所)・大洋図書(発売元)〈X-BOOK ミリオンムック〉、2014年12月10日、64-77頁。ISBN 978-4813071419。
- 斎藤充功「第五章 恩赦によって救われた死刑囚たち」『恩赦と死刑囚』314号(初版発行)、洋泉社〈新書y〉、2018年1月26日、134-150頁。ISBN 978-4800313799。