小笠原広勝
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時代 | 戦国時代後期 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 元亀2年(1571年)[注釈 1] |
死没 | 慶長6年7月7日(1601年8月5日)[注釈 1][2][1] |
別名 | 新五郎、新九郎[1] |
戒名 | 無相院殿底山正徹大居士[2] |
墓所 | 安泰寺墓地[注釈 2][2][1] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原安次、母:松平好景の娘[3] |
兄弟 | 安広、安勝[注釈 3]、広勝、牧野康成の妻、小笠原安芸の妻[注釈 4][3] |
妻 | 石川右近大夫の娘[注釈 5][1] |
子 |
広次 養子:広信、広正[1] |
小笠原 広勝(おがさわら ひろかつ)は、安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。
略歴
[編集]信濃守護家小笠原氏の傍流で三河国幡豆郡を本領とする小笠原安次の三男。
天正10年(1582年)天正壬午の乱で父とともに後北条氏への押さえとして遠征し、伊豆三島で北条勢と戦うが、父は戦死し自らも手傷を負った。その後は家督を襲い駿河三枚橋城の在番して後北条氏と対峙し、後年その労を賞されて駿河富士郡内に1,000石を賜った。天正18年(1590年)徳川氏が関東に移封されると、広勝もまた上総国周淮郡飯野[注釈 6]に所領を移した。文禄元年(1593年)家康の名護屋城出張に供奉。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは西軍九鬼嘉隆の備えとして、同族の小笠原信元・広朝や千賀重親らとともに尾張国知多郡師崎に布陣し、嘉隆の軍船を奪うなど活躍した。慶長6年(1601年)摂津木津口に在番したが、程なく大坂において死去した[6][1]。子は庶子の広次しかいなかったため、兄で広勝領に隠居していた安勝[注釈 3]の子の広信・広正兄弟が養子となり、江戸幕府旗本となった[注釈 7][7][1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 永禄10年(1567年)生、慶長7年(1602年)没とする説もある[1]。
- ^ 千葉県富津市上飯野[2]。
- ^ a b 七郎右衛門安勝の異説として、名を安正とし、広勝の父・安次の従弟にあたるとするものがある[3]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』は小笠原安芸守信元の妻を三浦備後守の娘とする[4]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』石川譜には、石川右近大夫康正の娘として広勝の妻は見られない[5]。
- ^ 現在の千葉県富津市上飯野・下飯野。
- ^ 広勝の家督を継いだ広信は元和6年(1620年)に嗣子無く没した。家督を広信の実弟・広正に継承させるべき議もあったが許されず、広勝より相続した周淮領は収公された[1]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 富津市史編さん委員会 編『富津市史』 通史、富津市、1982年。
- 富津市史編さん委員会 編『富津市史』 史料集2、富津市、1980年。
- 『寛政重修諸家譜』 3巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0207-9。
- 『寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6。