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小笠原棟敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 棟敬
時代 江戸時代後期
生誕 文政11年12月5日1829年1月10日[1]
死没 文久3年9月14日1863年10月26日
別名 敬二郎(通称)、貞大、義卿(字)、敬斎・直方軒・白馬山人(号)
主君 小笠原忠幹
小倉藩
氏族 小笠原氏→水原氏→小笠原氏
父母 父:小笠原長武、母:武田氏[1]
兄弟 貞幹(忠幹)棟敬(敬二郎)
生野藤(純操院)
敬信
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小笠原 棟敬(おがさわら むねたか)は、小倉藩の政治顧問(御政事御世話)。播磨国安志藩小笠原長武の息子で、兄に小倉藩主小笠原忠幹(貞幹)。別名を小笠原敬二郎。

生涯

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一時期水原氏の養子となるが、間もなく本姓に復している[1]。江戸で安積艮斎佐藤一斎大橋訥庵らに師事する[1]万延元年(1860年)11月6日に兄で安志藩主を継いでいた貞幹(忠幹)が小倉藩主家を継ぐと、兄によって文久元年(1861年)8月に小倉へ招かれ、藩の政治顧問として「御政事御世話」に就く。同藩家老島村志津摩小宮民部と藩政を巡って対立し、文久3年(1863年)5月に島村志津摩は江戸台場警備に左遷された。

同年9月、敬二郎は職を辞して江戸に赴くことになったが、同月14日に死去した。弓の稽古中に弦で左手を切り破傷風になったという説や、手の動脈を切ったとする説もある[1]

元治元年(1864年)2月に島村志津摩は小倉に呼び戻された。

脚注

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  1. ^ a b c d e 福田殖「小笠原敬斎略伝」『中国哲学論集』第9巻、九州大学中国哲学研究会、1983年10月、51-65頁、doi:10.15017/18078hdl:2324/18078ISSN 0385-6224