小笠原棟敬
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政11年12月5日(1829年1月10日)[1] |
死没 | 文久3年9月14日(1863年10月26日) |
別名 | 敬二郎(通称)、貞大、義卿(字)、敬斎・直方軒・白馬山人(号) |
主君 | 小笠原忠幹 |
藩 | 小倉藩 |
氏族 | 小笠原氏→水原氏→小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長武、母:武田氏[1] |
兄弟 | 貞幹(忠幹)、棟敬(敬二郎) |
妻 | 生野藤(純操院) |
子 | 敬信 |
小笠原 棟敬(おがさわら むねたか)は、小倉藩の政治顧問(御政事御世話)。播磨国安志藩主小笠原長武の息子で、兄に小倉藩主小笠原忠幹(貞幹)。別名を小笠原敬二郎。
生涯
[編集]一時期水原氏の養子となるが、間もなく本姓に復している[1]。江戸で安積艮斎・佐藤一斎・大橋訥庵らに師事する[1]。万延元年(1860年)11月6日に兄で安志藩主を継いでいた貞幹(忠幹)が小倉藩主家を継ぐと、兄によって文久元年(1861年)8月に小倉へ招かれ、藩の政治顧問として「御政事御世話」に就く。同藩家老の島村志津摩や小宮民部と藩政を巡って対立し、文久3年(1863年)5月に島村志津摩は江戸の台場警備に左遷された。
同年9月、敬二郎は職を辞して江戸に赴くことになったが、同月14日に死去した。弓の稽古中に弦で左手を切り破傷風になったという説や、手の動脈を切ったとする説もある[1]。
元治元年(1864年)2月に島村志津摩は小倉に呼び戻された。