小菅智淵
小菅 智淵 こすげ ともひろ | |
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生誕 |
1832年12月16日 江戸 牛込 |
死没 |
1888年12月18日(56歳没) 大日本帝国 愛知県 名古屋 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1877年 - 1888年 |
最終階級 | 陸軍工兵大佐 |
墓所 | 青山霊園 |
小菅 智淵(こすげ ともひろ、天保3年11月25日(1832年12月16日) - 1888年(明治21年)12月18日)は、日本の陸軍軍人。正五位。工兵隊の創成者で、陸軍参謀本部初代陸地測量部長を務めた。
経歴
[編集]1832年(天保3年)11月25日、江戸牛込区山伏町(現在の東京都新宿区市ヶ谷山伏町)に幕臣関定孝の次男として生まれた。幼名辰之助。実弟の関定暉は陸地測量部の初代地形課長である。
幼少時から長じて昌平坂学問所で学び、学問の他に武技も熱心に学んだ。22歳の時、叔母の嫁ぎ先である旗本小菅五郎兵衛の養子となる。その後、幕府の軍艦操練所や開成所などに入所して、航海術、工学、数学等の研究に没頭した。
その後、講武所に入り、士官としての軍事教育を受け幕府陸軍の歩兵差図役、同頭取となり、慶応4年(1868年)3月13日には歩兵頭並に昇進し、同3月中には工兵隊に転属となり、工兵頭並に転出した。戊辰戦争では、幕臣として官軍に抗し、箱館戦争に至るまで各地を転戦し、五稜郭の戦いの後、捕らわれの身となった。
約1年の幽閉の後、1870年2月(明治3年1月)恩赦により静岡藩引渡しとなった[1]後、1872年2月(明治5年3月)、陸軍省八等出仕に任官[2]し、陸軍築造局、陸軍兵学寮教授を経て、1877年(明治10年)4月26日、陸軍少佐に任ぜられ、陸軍士官学校教官に仰せ付けられた[3]。同年5月17日には陸軍教導団教官兼任となり、1879年(明治12年)11月、参謀本部測量課長に任命された。その後、全国測量の計を立て、今日の5万分1地形図の全国整備の基礎を築くとともに、内務省大三角測量事業を併せ、全国測量事業を統一した。
1882年(明治15年)3月8日陸軍工兵中佐に任ぜられ[4]、1884年(明治17年)9月10日、参謀本部測量局長に補せられる[5]。1886年(明治19年)4月23日陸軍工兵大佐となり[6]、参謀本部長隷下の独立官衙たる陸地測量部の創設に尽力し、1888年(明治21年)5月14日陸地測量部初代部長となった[7]が、同年12月18日、久留米基線測量視察からの帰途、名古屋陸軍病院にて病没。享年56。墓所は青山墓地。
1899年(明治32年)、銅像が芝公園に建立されたが、戦時中の金属供出で撤去され、再建はされていない。
栄典
[編集]- 1874年(明治7年)3月8日 - 正七位[8]
- 1882年(明治15年)5月1日 - 正六位[9]
- 1887年(明治19年)5月29日 - 勲四等旭日小綬章[10]
- 1887年(明治19年)7月8日 - 従五位[11]
- 1888年(明治21年)12月18日 - 正五位[12]
家族・親族
[編集]小菅智淵の妻は作子で、作子との間に2男5女があった。長男は早世し、次男の如淵が小菅家を継いだ。如淵は一高、東大と進み、1905年東京帝国大学(現在の東京大学)法科を卒業し、1907年会計検査官となり、会計検査院第二部長在職中に死去した。如淵は晩婚であったため子供がなかった。以後小菅家は女系で繋がることとなる。長女の茂は、明治初年の馬車鉄道長種田に嫁し、次女の縫は銀行頭取笹尾に嫁し、三女の房は西郷従道の義弟の得能通要に嫁し、四女の浜は高橋に嫁いだが死別し、池上四郎と再婚した。五女の芳は裁判官の板垣に嫁した。浜が再婚した池上四郎は会津藩士・池上武輔の二男で、大阪府警察部長、大阪市長などを歴任し、朝鮮総督府政務総監在職中死去した。池上四郎・浜夫妻の間には2男5女の7人の子供があった。六女の紀子は川嶋家に嫁し、2男2女をもうけた。紀子の夫は川嶋孝彦であり、内閣書記官、内閣統計局長、参議院事務局専門員などを経て、国立国会図書館専門調査員在職中に死去した。川嶋孝彦・紀子の長女・宮子が養女として入り、小菅家を継いでいる。
悠仁親王の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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脚注
[編集]- ^ 『太政官日誌』明治3年第9号
- ^ 「明治5年 「大日記 壬申3月 省中の部 辛」(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C04025192800
- ^ 「明治10年 陸軍省日誌 亨 亨丙 第12号自4月同年第19号至6月(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08010465300
- ^ 「明治15年 辞令写武官の部(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C10072656800
- ^ 『官報』第367号、明治17年9月16日。
- ^ 『官報』第846号、明治19年4月30日。
- ^ 『官報』第1462号、明治21年5月17日。
- ^ 『太政官日誌』明治7年第32号
- ^ 「明治15年 「大日記 5月 宣告辞令進退諸達伺 陸軍省総務局」(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C04030540100
- ^ 『官報』第876号、明治19年6月4日。
- ^ 『官報』第909号、明治19年7月13日。
- ^ 『官報』第1643号、明治21年12月19日。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 地図測量の300人|小菅智淵(こすげ ともひろ 1832-1899) - ウェイバックマシン(2016年4月30日アーカイブ分)
- 測量・地図ミニ人物伝:小菅智淵