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小野田家住宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野田家住宅 主屋
情報
構造形式 木造瓦葺[1]
建築面積 292 m² [1]
階数 2階建[1]
竣工 1886年
所在地 441-3203
愛知県豊橋市高塚町字郷中65
座標 北緯34度39分46.9秒 東経137度24分0.3秒 / 北緯34.663028度 東経137.400083度 / 34.663028; 137.400083 (小野田家住宅 主屋)座標: 北緯34度39分46.9秒 東経137度24分0.3秒 / 北緯34.663028度 東経137.400083度 / 34.663028; 137.400083 (小野田家住宅 主屋)
文化財 登録有形文化財
指定・登録等日 2013年6月21日[1]
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小野田家住宅(おのだけじゅうたく)は、愛知県豊橋市高塚町字郷中65にある邸宅。主屋と長屋門が登録有形文化財

歴史

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12代 小野田吉次郎

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江戸時代の小野田家は三河国渥美郡高塚村[2]庄屋を務めていた[3]

文政5年(1822年)に西七根村に生まれた高橋吉次郎(小野田吉次郎)は、小野田家の養子となって12代当主を襲名した。26歳の時に国学者の羽田野敬雄に師事すると、高塚村において殖産興業や自力更生を説いた[2]。平民ながら寺子屋を開くなどし、後に代議士となる高橋小十郎などが小野田吉次郎に学んだ[4][5]

小野田吉次郎は酒造業や薬品販売なども営んでおり、仕事で江戸に向かうこともあった[3]。嘉永2年(1849年)には長屋門が建てられたが、江戸の武家屋敷の門構えを気に入ったためだとされる[3]明治維新後の1876年(明治9年)には長屋門で郵便取扱所を始めた[3]。小野田吉次郎は1879年(明治12年)に死去した。

13代 小野田澄吉郎

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弘化2年(1845年)、小野田吉次郎は額田郡深溝村の岩瀬澄吉郎(小野田澄吉郎)を養子に迎えた[2]。1886年(明治19年)、13代当主の小野田澄吉郎によって小野田家の主屋が建てられた[1]。1892年(明治25年)、小野田澄吉郎は新たに設立された豊橋銀行の株主となり、1898年(明治31年)には新たに設立された三遠銀行(→尾三貯蓄銀行→尾三銀行)の株主となった[6]。1920年(大正9年)には主屋が増築された[1]

近年の動向

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2013年(平成25年)6月21日、主屋と長屋門が登録有形文化財に登録された[1]

建築

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渥美半島の付け根と言える豊橋市南部、遠州灘に面する段丘の上にある[3]

主屋

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敷地中央には主屋が南面する[1]。主屋の主体部は2階建であり、西側に増築した座敷棟を接続する[7]。1階の東側は土間、西側は2列6室の居室であり、2階には納戸と中廊下型の4室がある[1]。木造2階建、瓦葺[1]。1886年(明治19年)竣工[1]

長屋門

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長屋門

主屋の南方には長屋門が南面する[7]。木造平屋建、瓦葺[7]。嘉永2年(1849年)竣工[3]。桁行17m、梁間4.6m[7]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 小野田家住宅主屋 文化遺産オンライン
  2. ^ a b c 『高豊史』高豊史編纂委員会、1982年、364-367頁。 
  3. ^ a b c d e f 『保存情報3』日本建築家協会東海支部愛知地域会保存研究会、2015年、42-43頁。 
  4. ^ 『高豊史』高豊史編纂委員会、1982年、352-353頁。 
  5. ^ 『渥美郡史』渥美郡、1923年、809頁。 
  6. ^ 『高豊史』高豊史編纂委員会、1982年、592頁。 
  7. ^ a b c d 小野田家住宅長屋門 文化遺産オンライン

参考文献

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  • 『保存情報3』日本建築家協会東海支部愛知地域会保存研究会、2015年。 
  • 『渥美郡史』渥美郡、1923年。 
  • 『高豊史』高豊史編纂委員会、1982年。 

外部リンク

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