小間粛
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小間粛 こま しく | |
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生年月日 | 1843年(天保14年8月) |
出生地 | 日本能登国鳳至郡清水村(現:石川県輪島市門前町清水) |
没年月日 | 1900年(明治33年)12月1日(満58歳没) |
所属政党 |
(能奥自由党) (愛国公党) 自由党 |
選挙区 | 石川県第4区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1890年7月1日 - 1891年12月25日 1894年3月1日 - 1894年6月2日 |
在任期間 | 1890年 - 1891年 |
選挙区 | 鳳至郡選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1879年 - 1890年 |
小間 粛(こま しく、1843年(天保14年8月) - 1900年(明治33年)12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。
来歴
[編集]1843年(天保14年)8月 能登国鳳至郡清水村の藤九郎の次男に生まれる。父は加賀藩の寺社奉行であった。小間は藩校に学び漢学を修め、藩から山廻役を命ぜられていた。廃藩後は養蚕業を営み、製糸工場を経営した。 その一方で戸長を務めのちに門前小学校で訓導や珠洲郡書記も務めた。 1879年県会議員選挙に鳳至郡選挙区から出馬し当選、以後当選を重ねる。1883年2月には盈進社発起の北陸道有志大懇談会に参加し、1884年の県会では河瀬貫一郎に反対の立場をとったが同志少なく主導権を握ることはできなかった。その後依然として河瀬派と対立し1887年には遠藤秀景と連携した。 1888年4選され、仮議長を選ぶにあたり真舘貞造の資格問題[1]を追及して遂には県会を解散に至らしめた。 1889年5選され所属する自由党の議員は31名に達し同年2月に副議長に選出された。 1890年の第1回衆議院議員総選挙では石川4区から出馬し、当選したが所属政党は愛国公党だった。その後、同年に自由党に加盟した。 1892年には第2回衆議院議員総選挙に出馬したが百萬梅治に敗れ落選。1894年の第3回衆議院議員総選挙では4票の僅差で百萬を破り当選。しかし、第4回選挙以降は落選、その後落選を重ねる。一時自由党系の機関紙「北陸日報」の経営にあたったり總持寺の鶴見移転に尽くしたりしたが、病を患い1900年(明治33年)12月1日に58歳で死去する。嗣子がないため下時国家より忠兵衛を養子に迎えた。
註
[編集]- ^ 小間は真舘が県会議員選挙の被選挙権が無いと追及した。
参考文献
[編集]- 『新修門前町史 通史編』2006年
- 『石川県議會史 第1巻』1969年