百萬梅治
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百萬梅治 ひゃくまん うめじ | |
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生年月日 | 1858年(安政5年)2月 |
出生地 | 日本能登国鳳至郡徳成谷内村(現:石川県輪島市町野町徳成谷内) |
没年月日 | 1896年(明治29年)3月9日(満38歳没) |
出身校 | 輪島師範学校 |
所属政党 | 自由党 |
親族 | 孫・百萬彦邦(石川県議会議員) |
選挙区 | 石川県第4区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1892年2月15日 - 1893年12月30日 1894年9月1日 - 1896年3月9日 |
選挙区 | 鳳至郡選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1886年8月5日 - 1892年2月 |
百萬 梅治(ひゃくまん うめじ、1858年(安政5年)2月 - 1896年(明治29年)3月9日)は日本の政治家。衆議院議員(2期)
経歴
[編集]1858年(安政5年)2月に百萬九右衛門の長男として生まれる。幼名は梅乃助と称し18歳のときに改名した。百萬家は地元の旧家で、梅治は22代目であった。時国小学校を卒業後、輪島師範学校に入り1878年に卒業し東小学校訓導に就任した。1880年(明治13年)4月に金沢へ出て河波有道に漢学を学び1882年に帰郷した。帰郷した後、数々の地元の公職に就き、1885年1月6日に県会議員補欠員に当選した[1]。その後、1886年9月、1889年1月、1891年10月にそれぞれ再選された。1892年2月、衆院選に政府を支持する吏党派から出馬し、民党派の小間粛と争って当選した。1894年3月の衆院選には落選したが、9月の選挙には当選した。所属政党は自由党で、勝海舟と親しかった。1896年3月9日、衆議院議員在職中のまま死去した。
註釈
[編集]参考文献
[編集]- 『石川県議會史 第1巻』1969年