尾上作兵衛
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尾上 作兵衛(おのえ さくべえ、旧姓・池内、幼名・賢次[1][2]、1872年10月1日(明治5年8月29日)[3] - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。姫路市会議員[4]。国栄機械製作所創業者[5]。族籍は兵庫県平民[2][3]。
グローリー実質創業者尾上壽作の父[5]。グローリー会長尾上壽男の祖父。
経歴
[編集]兵庫県飾麿郡安室村字新在家(現・姫路市)出身[6]。兵庫県平民・池内宗太郎の二男[3]。姫路の商家[5]、尾上作平の養子となり、1901年、家督を相続した[1][7]。
1918年3月、姫路市延末にて、作兵衛は個人経営で電球製造機の修理・販売を開始した[8]。また、山陽醤油社長[1][注 1]、日本化学漆器代表取締役[7]、三十八銀行、姫路水力電気、姫路銀行、姫路莫大小、姫路倉庫各取締役[3][7]など各種の会社重役を務めた。
人物
[編集]独学自習により和漢の学や泰西の状勢に通じた[4]。資性温厚篤実で徳義を重んじた[4]。
『時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家』(1916年)によれば、尾上作兵衛の財産見積額は50万円、財産種別は現金有価証券28万円、家屋土地8万円、耕地山林14万円である。
家族・親族
[編集]- 尾上家
- 養父・作平(木綿卸商[10]、名望家[11])
- 妻・りゑ(1876年 - ?、尾上又市の長女)[1][2]
- 長女・りつ(1894年 - ?、尾上暉一の妻)[1]
- 男・作次(1898年 - ?、1936年に家督を相続[12]、日本化学漆器社長、東亜化学燃料、姫路倉庫、山陽醤油各取締役)[12]
- 三男・壽作[3](1903年 - 1998年[5])
- 四男・仙次(1906年 - ?)[3]
- 五男・信次(1910年 - ?)[3]
- 六男・政次(1912年 - 1994年)[3]
- 養叔父・作太郎[2][7]
- 親戚
- 浅井彌兵衛[2](龍野銀行頭取、金融業)
- 実弟・池内善雄(台湾総督府高等法院長)
- 長女の夫・尾上暉一(1886年 - ?、姫路商工会議所議員、姫路土地建物、播磨電気、日本化学漆器各取締役)[12] - 荒木善右衛門の四男[12]。1913年、尾上作兵衛の養子となった[12]。1914年、中国合同電気会社に入り姫路支店事務長を経て調査部長兼企画課長に就任した[12]。宗教は浄土宗[12]。住所は姫路市北条口[12]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『人事興信録 第13版 上』オ61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月25日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第5版』を40頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第4版』を27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月25日閲覧。
- ^ a b c 『大正人名辞典』1851頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月25日閲覧。
- ^ a b c d 『保証時報』兵庫県信用保証協会、2013・9、9-11頁。
- ^ 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家(時事新報、1916年)。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第10版 上』オ62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月25日閲覧。
- ^ 第57期有価証券報告 - グローリー。
- ^ 『兵庫県会社一覧 昭和15年12月末日現在』102頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月25日閲覧。
- ^ 『日本全国商工人名録 明治25年版』兵庫県450頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月9日閲覧。
- ^ 『帝国名望家大全』136頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 上』オ58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月29日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本全国商工人名録 明治25年版』日本全国商工人名録発行所、1892年。
- 吉野民司編『帝国名望家大全』吉野民司、1895年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 兵庫県総務部調査課編『兵庫県会社一覧 昭和15年12月末日現在』兵庫県総務部調査課、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。