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尾久町

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尾久から転送)
おぐまち
尾久町
熊野前駅周辺(尾久橋通りが見える)
熊野前駅周辺(尾久橋通りが見える)
廃止日 1932年10月1日
廃止理由 東京市編入
尾久町南千住町日暮里町三河島町→東京市荒川区
現在の自治体 東京都荒川区
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 東京府
北豊島郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 2.48 km2.
総人口 73,368
(昭和5年国勢調査、1930年10月1日)
隣接自治体 北豊島郡三河島町滝野川町王子町南足立郡江北村西新井村
尾久町役場
所在地 東京府北豊島郡尾久町大字上尾久字熊野前2630番地
座標 北緯35度45分02秒 東経139度45分55秒 / 北緯35.75061度 東経139.76528度 / 35.75061; 139.76528座標: 北緯35度45分02秒 東経139度45分55秒 / 北緯35.75061度 東経139.76528度 / 35.75061; 139.76528
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尾久町(おぐまち)は、かつて東京府北豊島郡に存在したの一つ。1923年大正12年)の町制施行によって誕生した。現在の荒川区北西部に当たる地域。

なお、1889年明治22年)の市制町村制によって誕生した、前身である尾久村(おぐむら)についても合わせて記述する。また、元々鎌倉時代から室町時代には武蔵国豊島郡小具郷(おぐのさと、おぐごう)と呼ばれ、現在の荒川区東日暮里台東区根岸北区堀船のあたりも含む広大な地域であった。これについても本項で述べる。

また、一般的には1929年昭和4年)開業のJR東日本(旧国鉄尾久駅(読みは「おく」)のある北区昭和町(旧・滝野川町大字中里上中里の一部)も尾久地域(おぐちいき、おくちいき)として認識されている。

地理

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現在の地名では東尾久西尾久のほぼ全域および町屋五丁目から七丁目の大半に相当する。

荒川氾濫原であり、一般的に平坦である。

江戸時代には練馬大根千住目黒などと並んで、ゴボウの産地として知られた。明治時代には他にも多数の野菜が生産されていた。

尾久駅の所在地は北区で荒川区尾久ではない。大正時代にはこの地域が温泉を中心とした遊興地として、相応の知名度を誇っていたことがうかがえる。

地名

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  • 大字 上尾久
    • 字 神田、鬼島、船方前、柊、後田、西、馬場、四反田、宮ノ前、山谷、沼付、溝向、熊野前、東田島、石神、下田、十三房、江頭、秣場、同飛地
  • 大字 下尾久
    • 字 蛭田、小沼、赤土、八ッ城、大門、豆田、江川尻、新田
  • 大字 船方
    • 字 向端、小橋

歴史

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古くは「おうぐ」と発音し、小具、越具、奥とも書かれた。鎌倉時代の『吾妻鏡』に「武蔵国豊嶋庄犬食名」とあるが、この「犬食」は「大食(おおぐい)」の誤記であり、尾久のことではないかとする説もある。なお、室町時代の『長禄江戸図』にはすでに尾久と記されている。一説には「豊島郡の奥」または、江戸の北限である隅田川を背にしていることから「江戸の奥」が由来とされているが不詳である。

小具郷は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮の社領であった。元々は金杉村(現在の東日暮里・台東区根岸)も含んでいたが、やがて分立した。さらに時期は不明だが、正保の改までには上尾久村下尾久村、舟方村(後の船方村)に分かれ、江戸時代には上尾久村・下尾久村は峡田領[1]、船方村は岩淵領に属した[2]

1889年(明治22年)、北豊島郡上尾久村、下尾久村、船方村の一部が合併し尾久村が成立。船方村の大半は王子村豊島村堀之内村上十条村下十条村と合併し王子村となったため、古来の小具郷の範囲からはさらに小さくなってしまった。尾久村は1923年(大正12年)に尾久町となり、1932年(昭和7年)尾久町に加え、南千住町三河島町日暮里町が合併して荒川区が誕生し、自治体名から尾久の名前は消滅した。

明治時代には農業地域であったが、鬼怒川や猪苗代などの変電所の建設以降、大正時代までには工業地域に変貌した。

大正から昭和にかけ、尾久温泉(ラジウム鉱泉)が湧き出たことにより、三業地料理屋芸妓屋待合)として発展することになる。かの阿部定事件は、ここ西尾久で引き起こされた。戦後高度経済成長期地下水が枯渇して温泉が消滅すると伴に、その賑わいも消えていった。

現在の尾久地域は町工場、商店街、住宅が混在して密集する地域であり、下町の雰囲気が色濃く残っている。都内唯一の都電が走っており、東京都交通局荒川電車営業所荒川車庫前停留場)がある。また、荒川区が運営している遊園地あらかわ遊園がある。

沿革・年表

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行政

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施設

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  • 尾久町役場庁舎
    • 元は尾久尋常高等小学校内にあったが、1917年(大正2年)に新築。尾久町農会、尾久町信用組合併設。

経済

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産業

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  • 主な産業:商業、工業盛ん。農業は減少傾向にあり。
    • 商業:尾久温泉の発掘により盛んとなる。
    • 工業:増加傾向にある。
    • 農業:かつてはほとんどの土地が耕地であり、野菜の生産が盛んであったが、耕地が住宅地、工業用地、商業地となってしまい減少していった。
地主
  • 尾久の地主には「戸田倉之助、戸田利蔵、戸田寅蔵、戸田初五郎、戸田紋左衛門」などがいた[3]

地域

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教育

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交通

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鉄軌道

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道路

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  • 東京府費支弁道草加間道
  • 東京府費支弁道尾久道
  • 東京府費支弁道田端道
  • 東京府費支弁道日暮里道

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

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神社

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宗教

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遺跡・その他

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条里の遺跡の碑  
大和政権が実施した条里制の痕跡。「条里南道」と記された碑は、明治20年(1887年)ころ、人文地理学者小田内通敏東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制遺構の保存を進言。尾久西小学校付近一帯に、班田制による条里の遺跡と思われる水田区画が残っていたといわれ、その保存法を進言して標示石を立てたという。当時下尾久村町屋にもこの田園区画が残っていたといわれ、荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。条里制は大化元年(645年)以後行われた耕地整理であり、主として平野盆地などの平地に見られるため条里があったことで、奈良時代には既にこの辺りが平地であったことがわかる。
十三坊塚
東京都立大学荒川キャンパス付近はかつて十三坊という名で呼ばれており、『新編武蔵風土記稿』によれば、旧上尾久村側に「十三坊塚 当所ニ四所アリ。高各五尺許。」と4基[4]、下尾久村側に「十三坊塚 村北ニアリ。高サ五尺、廻リ七八間。八ケ所程アリ。此内ニ砂利塚ト唱ヘルアリ。永禄年中、太刀具足様ノモノヲ掘出セシコトアリシト云。」と8基あり[5]、高さ1.5m、径13から15m程の塚が計12基が所在していたようある。この十三坊という地名は古代の条理制に基づく地名らしく、また、塚から太刀や具足の類が出土したという記事から武具副葬した古墳群であったとも考えられ、荒川区報では古墳であったろうと推定されている。

脚注

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参考文献

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  • 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。
  • 北豊島郡農会編『北豊島郡誌』、1918年大正7年)11月10日発行、1979年(昭和54年)9月25日復刻版発行。
  • 新編武蔵風土記稿
    • 「峡田領」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ14豊島郡ノ6、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763977/53 
    • 「上尾久村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ14豊島郡ノ6、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763977/61 
    • 「下尾久村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ14豊島郡ノ6、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763977/62 
    • 「岩淵領」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ17豊島郡ノ9、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763977/92 

関連項目

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