山内豊敷
山内豊敷像(土佐山内家宝物資料館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 正徳2年6月8日(1712年7月11日) |
死没 | 明和4年11月19日(1768年1月8日) |
改名 | 正之助→伊右衛門→重固→豊敷 |
戒名 | 大昌院天徳承真 |
墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 |
官位 | 従四位下・民部大輔、侍従、土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 土佐藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 |
山内規重、西大路隆栄娘富姫 山内豊常 |
兄弟 | 豊敷、茂信 |
妻 |
山内豊隆娘長姫 加恵、祥栄院 |
子 | 豊治、豊儀、豊根、豊雍、豊泰、峰、賀、正 |
山内 豊敷(やまうち とよのぶ)は、土佐藩8代藩主。
生涯
[編集]正徳2年(1712年)6月8日、土佐藩家老深尾家の分家で、山内姓を与えられていた山内規重の長男として生まれる。豊敷の父・規重は、第2代藩主・山内忠義の弟で深尾家に養子入りした深尾重昌の子孫で、山内氏一族の中でも人望があり、家老として藩主を補佐していた人物でもあった。父・規重が享保6年(1721年)に死去し、跡を継いだ。初名は重固であった。
享保10年(1725年)10月22日、本家の第7代藩主・山内豊常が子女を残さないまま早世したため、豊常の妹・長姫の夫で義弟の豊敷が豊常の養子となって跡を継いだ。同年10月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。同年12月18日(西暦では1726年1月)、従四位下・民部大輔に叙任する。享保13年12月21日(西暦では1729年1月)、侍従に任官する。
しかし藩政においては、享保12年(1727年)の高知城焼失、享保17年(1732年)の害虫による凶作、享保18年(1733年)には前年の凶作による飢餓などに苦しめられ、幕府から1万5000両を借り受け、藩財政再建を目指して藩政改革を断行する。行政整理や風俗の徹底、製鉄業の奨励、藩士からの半知借上、宝暦2年(1752年)には国産方役所を設置して製紙業の専売化をはかるなどしている。しかし専売化に反対する中平善之進らによる一揆が起こり、一揆側の要求を受け入れて宝暦10年(1760年)に役所を一時的に廃止するなど、藩政改革は失敗に終わった。
宝暦9年(1759年)に藩校・教授館を創設し、文武を奨励する。さらに目安箱を設置して広く意見を求めるなどしたが、効果はなかった。明和4年(1767年)11月19日に死去した。享年56。
跡を四男の豊雍が継いだ。