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山口弘敞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山口 弘敞
時代 江戸時代後期
生誕 文化9年(1812年
死没 文久2年6月14日1862年7月10日
改名 孝之助(幼名)、房之助、監物、重光、弘敞
戒名 大道義雄弘敞院
墓所 東京都港区南麻布の曹渓寺
官位 従五位下、筑前
幕府 江戸幕府
常陸国牛久藩
氏族 山口氏
父母 山口弘致:不詳
養父山口弘穀
兄弟 弘封弘穀弘敞天野重教
正室本多忠升の娘
弘達、娘
養女天野重教娘・松平浪之助室)
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山口 弘敞(やまぐち ひろあきら)は、常陸牛久藩の第11代藩主

文化9年(1812年)、第8代藩主・山口弘致の四男として生まれる。嘉永2年(1849年)12月18日、兄で第10代藩主の弘穀が嗣子無くして死去したため、その養子となって跡を継いだ。嘉永3年3月15日、将軍徳川家慶にお目見えする。同年12月16日、従五位下筑前守に叙任する。

藩政においては兄と同じように藩財政再建のため、新田開発や干鰯の貸付を奨励するなどした改革を行い、成功させている。文久2年(1862年)6月14日に死去した。享年51。跡を長男の弘達が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

養女

脚注

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