山口弘隆
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 慶長8年6月11日(1603年7月19日) |
死没 | 延宝5年9月5日(1677年10月1日) |
改名 | 国丸→弘隆 |
官位 | 従五位下、但馬守、修理亮 |
藩 | 常陸牛久藩 |
父母 |
父:山口重政 母:小坂雄吉の娘 |
兄弟 | 重信、重長、弘隆、重恒 |
妻 | 正室:諏訪忠恒の娘 |
子 | 重貞(長男)、政信(次男)、重治(三男)、重富(四男)、娘(久永勝晴正室のち谷頼衛室) |
山口 弘隆(やまぐち ひろたか)は、常陸牛久藩の第2代藩主。初代藩主・山口重政の四男。母は小坂雄吉の娘。正室は諏訪忠恒の娘。子は山口重貞(長男)、山口政信(次男)、山口重治(三男)、山口重富(四男)、娘(久永勝晴正室のち谷頼衛室)。官位は従五位下。但馬守。修理亮。幼名は国丸。
経歴
[編集]慶長18年(1613年)、父と長兄・重信が改易された後、重信は大坂の陣で戦死したため、嫡子となった。元和8年(1622年)、父や弟の重恒と共に本多忠政に身柄を預けられたが、寛永5年(1628年)に赦免されて父は牛久に1万5000石を領する藩主となった。そして寛永12年(1635年)に父が死去したため、その跡を継いだ。このとき、弟の重恒に5000石を分与している。水口城の城番を務めて、延宝5年(1677年)9月5日に75歳で死去し、跡を長男・重貞が継いだ。法号は一灯見性弘隆院。墓所は東京都港区南麻布の曹渓寺。
系譜
[編集]父母
正室
- 諏訪忠恒の娘
側室
- 永井氏
子女