山名貫義
山名 貫義(やまな つらよし、天保7年3月1日(1836年4月16日) - 明治35年(1902年)6月11日)は、明治時代の日本画家。現在ではあまり知られていないが、当時は大和絵最後の大家として高く評価されていた画家である。
略歴
[編集]紀州和歌山藩の絵師山名広政の子として、江戸麹町で生まれる。幼名は大助。弟に同じく日本画家の前田貫業。はじめ住吉派の住吉弘貫に学ぶ。明治維新後、工部省、内務省、農商務省に測量技術をもって出仕する。
明治10年代になって再び画道に戻り、明治12年(1879年)古画の模写を嘱託される。明治15年(1882年)の内国絵画共進会では審査員になり、翌年正倉院の宝物調査に従事する。明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会も審査員として加わり、「藤房奉勅訪楠氏図」「獣虫戯図」を出品し銀賞を授与される。同年創立の鑑画会では、狩野永悳、狩野友信と共に、古画の鑑定委員として当初から参加している。明治18年(1885年の皇居造営の際には、杉戸絵や襖絵などを多数手がける。同年五月二十日付の『今日新聞』に掲載された、異なる10の分野において当時最も優れた人物を読者の投票で選ぶという「日本十傑指定」と題する記事では、「政治家」伊藤博文、「軍師」榎本武揚、「学術家」中村正直、「著述家」福沢諭吉らと並び、10番目の「画家」の項目で貫義の名が挙げられている。
明治21年(1888年)全国宝物取調のため奈良、京都など京阪地方の寺社の調査にあたり、明治30年(1897年)まで全国の社寺を巡査した。明治29年(1896年)結成された日本絵画協会において、有職故実に通じ古画鑑定の大家であった貫義は、岡倉覚三(天心)によってまたも審査員として推薦され、後進の育成を依頼された。同年6月30日帝室技芸員となり[1]、翌年古社寺保存会委員に任じられる。明治31年(1898年)東京美術学校のいわゆる「美校騒動」で新派の画家が抜けた後、荒木寛畝と共に教授に就任する。その数年後の明治35年(1902年)6月11日67歳で死去した。墓所は雑司ヶ谷霊園。
代表作
[編集]- 仲国訪小督図 (東京国立博物館) 絹本着色
- 浮草 (宮内庁) 杉板地著色 二面 明治21年(1888年)
- 養老 (東京芸術大学大学美術館) 絹本着色 明治33年(1900年)
- 花鳥図 (大英博物館) 紙本著色
脚注
[編集]- ^ 『官報』第3901号、明治29年7月1日。
参考資料
[編集]- 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、1989年
- 高階秀爾監修 『絵画の明治 近代国家とイマジネーション』 毎日新聞社、1996年、ISBN 978-4-620-60508-1