山田順一 (衆議院議員)
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山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3年8月13日[1]) - 1919年(大正8年)10月19日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。名は篤敬、字は子信、号は忠焉齋、旧姓飯塚[1]。
経歴
[編集]越後国刈羽郡新道村(のち新潟県刈羽郡日高村→高田村、現・柏崎市)生まれ[1][3]。神奈川県立修文館で英語を学び[1]、東京湯島共貫義塾を経て、麻布学農社で農学を学ぶ[1]。新潟県会議員、刈羽郡連合会議員、同議長、郡教育会議員、同議長、学務委員、両田尻村(現・柏崎市)外七ヶ村戸長、郡所得税調査委員[4]、徴兵参事員、田尻村会議員、刈羽郡会議員、同議長代理となる[5]。第百三十九国立銀行取締役、柏崎物産(株)社長、越後セメント取締役、柏崎米穀取引所理事長、宝(株)石油、日東石油(株)各取締役[5]、七十七銀行、石地銀行各監査役を務めた[2]。
1899年、牧口義方の死去による新潟6区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1919年に死去した。
家族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員列伝』山崎謙編、衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。