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山脇玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山脇玄
やまわき げん
生年月日 1849年3月26日
没年月日 (1925-10-07) 1925年10月7日(76歳没)
出身校 ベルリン大学
ライプツィヒ大学
ハイデルベルク大学
前職 行政裁判所長官
所属政党 同成会
称号 正六位
従四位
正四位
勲三等瑞宝章
従三位
勲二等瑞宝章
正三位
大礼記念章
勲一等旭日大綬章
配偶者 山脇房子
子女 養子 山脇春樹(内務官僚)

在任期間 1891年12月22日 - 1925年10月7日
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山脇 玄(やまわき げん、嘉永2年3月3日1849年3月26日)- 大正14年(1925年10月7日)は、日本の法学者法制官僚政治家教育者法学博士行政裁判所長官貴族院議員

経歴

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福井藩藩医・山脇立樹の長男として生まれる。福井藩の医学校・済生館で学んだ後、長崎に遊学して蘭学を学んだ[1]

1870年(明治3年)、文部省留学生としてドイツに渡り、ベルリン大学ライプツィヒ大学ハイデルベルク大学などで法学等を学び、日本人として初めてドイツ政府よりドクトルの称号を授与された[2]

1877年(明治10年)5月に帰国。同年8月、司法省御用掛となり民法編纂掛分科詰に配属された。以後、司法権少書記官兼太政官権少書記官、太政官権少書記官、参事院議官補・法制部、法制局参事官、兼行政裁判所評定官、法制局第一部長、行政裁判所評定官、同裁判所部長などを歴任し、大日本帝国憲法皇室典範の草案・起草にも参画した。1906年(明治39年)1月、行政裁判所長官に就任、1913年(大正2年)6月まで在任した。

政治家としては、1891年(明治24年)12月22日、貴族院勅選議員に任じられ[3]同成会に属し死去するまで在任した。1919年(大正8年)3月10日、帝国議会貴族院本会議において、帝国議会で初めてとなる「婦人参政権付与」に関する演説を行なった。

教育者としては、1881年(明治14年)9月、北白川宮能久親王品川弥二郎桂太郎青木周蔵加藤弘之西周等とともに獨逸学協会を設立し、1883年(明治16年)10月に創立された獨逸学協会学校で幹事、教頭を歴任した。1903年(明治36年)4月、獨逸学協会学校の別科(分校)があった牛込白銀町の校地に女子實脩学校(後の山脇高等女学校)を創立した[4]

1925年10月7日死去(満76才没)。勲一等旭日大綬章を贈られた[5]

帝国議会における「婦人参政権付与」に関する演説(抜粋)

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「立憲政治の本旨から云いましても、世界の大勢から見ましても、なおまた国民たるべき義務履行の上から論じましても、今日選挙権拡張の場合に於きまして、愛国心と国民的義務履行に於て平等である女子が、どうして国政に参与する上に於て、不平等なる待遇を受けねばならぬのでありましょうか、私は甚だ了解に苦しむのであります。もとより女子参政権に付きまして、人体の構造や、教育の程度や、古来の習慣や、其の他種々の原因よりして反対論があるに相違ありませぬが、其の反対論たるや詮じ詰めれば、古来女子を男子と同等の人間扱いにせなんだ結果を捉えて、直ちに之を論及するか、或は又男子自己の便宜を主とする偏見に基因するに非ざれば、全く一片の杞憂に外ならぬのであります。(中略)女子を参政権より除外することになれば、是れぞ即ち女子を非国民扱いにし、女子に対する非常な侮辱であると云わねばなりませぬ。かかる非立憲的の法制は、いやしくも文明国の仲間入りをした我国にあるまじきことではありませぬか。」(1919年3月10日 帝国議会貴族院本会議での演説)[6]

栄典

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位階
勲章等

親族

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  • 山脇房子(教育者、山脇高等女学校校長)
  • 養子 山脇春樹(農商務・内務官僚、官選県知事、山脇高等女学校校長)
  • 長女 春二(春樹の妻)
  • 次女 初音(荘司市太郎の妻)

著作

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  • 『学理実用府県制郡制論』済美館・明治図書出版、1900年。
  • 『日露戦役外交始末』芳文堂、1906年。

脚注

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  1. ^ 山脇玄 (第4版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2022年3月9日閲覧。
  2. ^ 獨協同窓会|山脇 玄”. 2022年3月9日閲覧。
  3. ^ 『官報』第2546号、明治24年12月23日。
  4. ^ 獨協同窓会|page1 戦前編”. 2022年3月9日閲覧。
  5. ^ a b 総理府賞勲局 編「(一〇五) 故従二位勲一等山脇玄勲章加授ノ件」『特別叙勲類纂(死没者) 上』大蔵省印刷局、1983年3月、56頁。doi:10.11501/11933117 オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 帝国議会会議録検索システム”. teikokugikai-i.ndl.go.jp. 2022年2月3日閲覧。
  7. ^ 『官報』第479号「賞勲叙任」1885年2月7日。
  8. ^ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1891年6月30日。
  9. ^ 『官報』第3918号「叙任及辞令」1896年7月21日。
  10. ^ 『官報』第5644号「叙任及辞令」1902年5月1日。
  11. ^ 『官報』第7165号「叙任及辞令」1907年5月21日。
  12. ^ 『官報』第4499号「叙任及辞令」1898年6月30日。
  13. ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
  14. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

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公職
先代
松岡康毅
日本の旗 行政裁判所長官
第5代:1906年 - 1913年
次代
岡野敬次郎