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山野辺義芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山野辺義芸
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保3年(1832年
死没 明治19年(1886年12月6日
改名 叔之介(幼名)→義芸
官位 従五位下、主水
主君 徳川慶篤昭武
常陸水戸藩家老
氏族 山野辺氏
父母 父:山野辺義観
兄弟 義正義芸
正室:美奈伊東長裕の娘)
義禮
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山野辺 義芸(やまのべ よしつね)は、幕末期の水戸藩家老。3代助川海防城主

生涯

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天保3年(1832年)、山野辺義観の次男として生まれる。

嘉永2年(1849年)、兄・義正の死により家督を相続、3代目の助川海防城主となった。嘉永5年(1852年)、従五位下に叙せられ、主水正を称す。安政元年(1854年)、家老職に就いた。

幕末期にあたり、水戸藩は党派紛争のめまぐるしい時代であったが、万延元年(1860年)、先代藩主斉昭が没すると藩内の党争がさらに激化する。元治元年(1864年)3月、藤田小四郎筑波山にて挙兵し、天狗党の乱が起こる。尊王攘夷派とみなされた義芸は6月、執政の任を解かれた。さらに幕府より天狗党追討令が出され、義芸は仲介を試みるも天狗党側とされた。9月6日に幕府・二本松藩らの陣営に包囲されて投降し、9月9日に助川海防城は落城した。12月に家名断絶、知行地と館を没収され、義芸は中山邸に禁錮された。

明治元年(1868年)、明治政府から官位を復され、水戸屋敷に住んだ。同年10月の弘道館戦争に参戦している。

明治19年(1886年)死去、享年55。

墓所

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  • 助川海防城の北、 東平山(日立市高鈴町)の山野辺家累代の墓所に葬られている。日立市指定史跡[1]

参考資料

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  • 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年
  • 鈴木彰『助川海防城―幕末水戸藩の海防策』崙書房、1979年

脚注

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  1. ^ 日立市報 2012年 8月 20日号No.1497 日立市