山野辺義胤
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳3年8月29日(1713年10月18日) |
死没 | 安永6年9月7日(1777年10月7日) |
別名 | 次郎、翁助、右衛門(通称) |
官位 | 従五位下、兵庫頭 |
主君 | 徳川宗翰→治保 |
藩 | 常陸水戸藩家老 |
氏族 | 山野辺氏 |
父母 | 父:山野辺義逵 |
子 | 養子:義聚、義風 |
山野辺 義胤(やまのべ よしたね)は、江戸時代中期の水戸藩家老。
生涯
[編集]正徳3年(1713年)、山野辺義逵の子として江戸に生まれる。
寛保2年(1742年)、36歳で大寄合頭格となる。延享3年(1746年)、大寄合頭上座、老中となって700石。延享4年(1747年)、父・義逵が隠居したため、家督を相続して1万石。同年、従五位下に叙され、兵庫頭と称した。寛延2年(1749年)には軍用司、城代となる。
宝暦13年(1763年)、後桜町天皇の即位にあたり、藩主名代として京に使した。明和6年(1769年)、再び軍用掛を命じられる。安永元年(1772年)、江戸城内で杖を用いることを許されたが、同6年(1777年)に死去した。享年65。
諸芸に通じ、硬骨、謹直をもって知られた。学を好んだ義胤は名越南渓などを師としたが、師が町人や低下層の学者であっても謙譲し敬って接したという。
子には恵まれず、はじめ佐伯藩主毛利高慶の四男・義聚(図書、扶揺と号す)を養子としたが、家風に合わなかったらしく、のちに離縁した。さらに中津藩主奥平昌敦の三男・義風を養子とした。
参考資料
[編集]- 鈴木彰『幕末の日立―助川海防城の全貌』常陸書房、1974年