山際七司
山際七司 やまぎわ しちじ やまぎわ しちし | |
---|---|
生年月日 | 1849年1月25日 |
出生地 |
日本 越後国蒲原郡木場村 (現・新潟県新潟市西区) |
没年月日 | 1891年6月9日(42歳没) |
死没地 |
日本 東京府東京市小石川区 (現・東京都文京区) |
所属政党 |
(自由党→) (自由党→) 国民自由党 |
親族 | 弟・佐藤友右衛門(貴族院議員) |
選挙区 | 新潟県第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1890年7月1日 - 1891年6月9日 |
新潟県会議員 | |
在任期間 | 1879年 - ? |
山際 七司(やまぎわ しちじ[1] / しちし[2]、1849年1月25日〈嘉永2年1月2日[2]〉 - 1891年〈明治24年〉6月9日[2])は、日本の政治家。衆議院議員。諱・義晴、字・鵬挙[2]。号・海州、任天[2]。
経歴
[編集]越後国蒲原郡木場村(現:新潟県新潟市西区木場)で、庄屋・山際郡司、かふる夫妻の長男として生まれる[2][3][4]。遠藤朝陽から漢学を学ぶ[3]。戊辰戦争に際し郷勇団を組織し米沢藩軍に加わり新政府軍と戦う[2][3][4]。
1869年、父の死去により庄屋、大河津分水工事用弁掛を引き継ぐ[3]。西洋の学問を学び、新潟の知識人と交際[3][4]。1875年(明治8年)2月、第二大区小二区戸長に就任し、地租改正事業を推進[3]。1878年(明治11年)、自立社の設立に参画し自由民権運動に加わる[2][3][4]。1879年(明治12年)、新潟県会議員に当選[3][4]。1880年(明治13年)、国会開設懇望協議会を開催し、国会開設運動に参加[3][4]。1881年(明治14年)、『東洋自由新聞』の創刊に参画し、また自由党の結成に加わり幹事に就任[2][3][4]。1883年(明治16年)、高田事件で検挙されたが後に釈放され、1885年(明治18年)、大阪事件でも連座し二年間の入獄後、無罪となり出獄した[2][3][4]。その後、条約改正中止運動を推進し、1887年(明治20年)、保安条例により東京退去を命ぜられた[3][4]。
1889年(明治22年)、大同団結運動が始まると、それに加わり、1890年(明治23年)3月、新潟県の大同派組織「越佐同盟会」を組織して理事長に就任した[3][4]。同年7月、第1回衆議院議員総選挙に新潟県第1区から出馬して当選[1]。自由党に所属したが、路線対立により除名され国民自由党に加わった[2][4]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
- 新潟日報事業社出版部編『新潟県大百科事典』復刻デスク版、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 野島出版編集部編『新潟県県民百科事典』野島出版、1977年。