岡内重俊
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岡内 重俊(おかうち しげとし、1842年5月11日(天保13年4月2日[1])- 1915年(大正4年)9月20日[1][注 1])は、幕末の土佐藩士、明治期の司法官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。通称・俊太郎[1]。
経歴
[編集]土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、土佐藩士・岡内清胤、鹿子夫妻の長男として生まれる[1][2]。土佐藩の横目職を務めた[3][4]。その後、海援隊に加わり坂本龍馬の秘書役を務め[1][4]、土佐藩の武器調達に尽力[3][4]。
明治維新後、新政府に出仕し、明治2年2月15日(1869年3月27日)刑法官鞫獄判司事に任じられた[5]。以後、鞫獄副知判司事、徴士・鞫獄司知事、刑部大解部、刑部少判事、刑部中判事、司法少判事、司法権中判事を歴任[5]。 岩倉使節団に理事官として参加した佐々木高行司法大輔の随行を命ぜられ、明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を出港し、欧米各国を巡行して1873年(明治6年)3月13日に帰国した[5]。
1873年3月15日、司法権大検事に就任。以後、判事、長崎上等裁判所長、大審院刑事局詰、高等法院陪席裁判官などを歴任した[1][5]。
1886年(明治19年)5月10日、元老院議官に任じられ、1890年(明治23年)9月29日、貴族院議員に勅選され[1][5][6]、死去するまで在任[7]。同年10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[5]。1900年(明治33年)5月9日、男爵を叙爵した[2][8]。立憲政友会に属して活動した[1][4]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大正過去帳 物故人名辞典』73頁・『海を越えた日本人名事典』新訂増補184頁では「9月19日」。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『明治時代史大辞典 第一巻』378頁。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、335頁。
- ^ a b 『幕末維新大人名事典 上巻』290頁。
- ^ a b c d 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、184頁。
- ^ a b c d e f 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』145-150頁。
- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』107-108頁。
- ^ a b 『官報』号外、明治33年5月9日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第1911号「叙任及辞令」1889年11月9日。
- ^ 『官報』第207号「叙任及辞令」1913年4月11日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
- ^ a b 『大正過去帳 物故人名辞典』73頁。
参考文献
[編集]- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 富田仁編『海を越えた日本人名事典』新訂増補、日外アソシエーツ、2005年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典 上巻』新人物往来社、2010年。
- 宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第一巻』吉川弘文館、2011年。
公職 | ||
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先代 伊丹重賢 長崎上等裁判所長心得 |
長崎上等裁判所長 1880年 - 1881年 所長心得 1878年 - 1880年 |
次代 中島錫胤 長崎控訴裁判所長 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 岡内(重俊)家初代 1900年 - 1915年 |
次代 岡内重清 |