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岩崎勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩崎 勝 (いわさき まさる、: Masaru Iwasaki1950年3月2日 - ) は、日本の元モーターサイクル・ロードレーサー。1970年代よりスズキオートバイ車両開発に従事。引退後はホンダ系サテライトチーム「ブルーフォックス」の監督としてTTF1と500ccで全日本チャンピオンを獲得した。

経歴[編集]

スズキの社内チームである浜松チームタイタン創設に尽力し、市販用オートバイ車両をテストコースで走らせ開発を担う。1970年代はホンダ・CB750カワサキ・Z1が人気となっており、2スト車での豊富な実績を持つスズキであったが4ストローク車では後発であり、先行ライバルメーカーに対抗すべく、同社初となる4ストロークエンジン搭載車としてGS750の試作・開発していた。岩崎はそのテストライダーとして走行を重ねエンジン開発、車体開発に深く携わり貢献する。このほかGSXや市販レーサーRGB500の車両開発も担当した。

また、レーサーとして全日本ロードレース選手権に参戦。1975年ジュニア125クラスにRG125で参戦しランキング9位。1976年からライセンス区分がエキスパートへと昇格し、その初年度の第2戦筑波よりRG500を託され参戦。世界グランプリではすでに投入され結果を残していたRG500が国内レースで使用されるのは初めてであったが、排気量で勝るKR750で出場の清原明彦を追いかけ総合2位に入り、岩崎の名はデビュー戦にしてレース界にその名前が知れ渡った。第7戦鈴鹿200マイルレースではRG500を優勝に導いた[1]。1980年には開発するスズキ・RGB500の性能確認のためヨーロッパでロードレース世界選手権(現MotoGP)にスポット参戦した。変わったところでは、1983年にRG500のスクエア4エンジンを半分にしたテストマシンで全日本250ccクラスにエントリーし予選を走ったが、開発途上のため予選のみの走行であった。

現役を引退後、1986年に入交昭廣が立ち上げたチーム・ブルーフォックスの監督に就任。全日本ロードレースに参戦するチームをマネージメントした。マシンはHRCから1年型落ちではあるがワークスマシンRVFの貸与を受ける。以後主にホンダのマシンを使用し、1988年に宮崎祥司のライディングにより全日本選手権TTF1クラスシリーズチャンピオンを獲得。若く速いライダーの発掘に長け、1992年より起用した武石伸也は鈴鹿8時間耐久でWGPライダーを抑えてポールポジションを獲得する速さを見せ、1993年には国際A級ライセンスを取得直後の阿部典史を最高峰500ccクラスに起用し、チームはNSR500でシリーズチャンピオンを獲得した[2]

レース戦歴[編集]

全日本ロードレース選手権[編集]

チーム マシン 区分 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1975年 浜松チームタイタン スズキ・RG125 ジュニア 125cc SUZ
4
TSU
4
SUZ
9
TSU
SUZ
6
SUG
SUZ
TSU
SUZ
9位 23
1976年 スズキ・RG500 エキスパート 750cc SUZ
TSU
2
SUZ
SUZ
TSU
Ret
SUG
SUZ
1
SUG
TSU
SUZ
1981年 スズキ・GS1000 国際A級 S1000 TSU
SUZ
TSU
SUZ
SUG
SUZ
6
TSU
SUG
SUZ
1983年 スズキ・RG-Γ500 500cc SUZ
TSU
SUZ
TSU
7
SUG
SUZ
TSU
SUG
SUZ
18 4
スズキ・250 250cc TSU
DNS
SUZ
TSU
SUG
SUZ
TSU
SUG
SUZ
NC 0
  • 1976年はRG500で参戦したが、500ccクラスが未設置のため賞典外。

ロードレース世界選手権[編集]

クラス チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1980年 500cc スズキ スズキ・RGB500 ITA SPA FRA NED
DNQ
BEL
DNQ
FIN GBR GER NC 0

脚注[編集]

  1. ^ 「沈滞をふきとばすスズキRG500」MFJライディング No.085 10頁 日本モーターサイクルスポーツ協会 1976年9月24日発行
  2. ^ 「今でもノリックのことを思い出すと泣いてしまう」チーム監督・岩崎勝さん Webike 2024年1月19日