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岩崎直礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岩崎 直礼(いわさき なおや、1840年天保11年10月27日〉- 1905年明治38年〉5月某日)は、江戸時代武士佐倉藩士)。

明治時代の官吏判事位階および勲等従五位勲五等[1]

経歴

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天保11年10月27日、佐倉藩の物頭岩崎金十郎の嗣子として、武蔵国豊多摩郡下豊沢村にあった藩の下屋敷(後に渋谷町、現在の東京都渋谷区日赤医療センター敷地内)に生まれた。

1862年または1863年文久2年または3年とも)2月29日、同藩士の小島善右衛門(は愛石)の長女濃子(弘化4年12月25日生於佐倉)と結婚する。1870年(明治3年)、藩の権大属に任命された。

同年から1898年(明治31年)の28年間、宮城控訴院の判事を務め、勤勉であった。1890年には山形県山形市光明寺町に住み、四女の寿衛が生まれた[注 1]

直礼は晩年、牛込区の邸で静養していたが、明治38年5月の妻濃子(1月17日没。釈名は仁譲院、享年58)の3周忌に病没した。享年69。仏教の宗派は日蓮宗で、戒名は泰潤院直禮日義居士。青山霊園に葬られた[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 彼女は三輪田女学校で学び卒業したが、1908年(明治41年)17歳で夭折した。 なお嗣子の三郎も1881年に生まれ両親が没した明治38年に京都帝国大学英文科を卒業し、寿衛が没した同41年に家督を継いだが、病を得たため1920年大正9年)5月24日に没した[要出典]

出典

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