岩村兼善
岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2年11月4日[1][2][3]) - 1919年(大正8年)11月27日[1])は、幕末の高鍋藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍主計少将。貴族院勅選議員。幼名・虎雄[4]。
経歴
[編集]日向国児湯郡高鍋石原(現宮崎県児湯郡高鍋町)で、高鍋藩士・岩村又之進の長男として生まれ、岩村武右衛門の養子となる[4][5]。藩校明倫堂で学び、さらに江戸の安井息軒に師事した[4]。戊辰戦争時、江戸で新政府の内国事務局参与であった藩主世嗣秋月種樹が、上杉鷹山以来親密な関係の米沢藩の行末を案じ、米沢藩に対して新政府へ恭順を勧める献策が認められ、その使者として岩村と坂田潔が選ばれ、戦乱の中で苦労して米沢に入り米沢藩を帰順に導いた[2][4]。
明治元年12月(1869年1-2月)岩鼻県出仕となり、同判事、同大参事を務め、明治4年4月(1871年5-6月)免本官となる[2]。1875年11月10日、十一等出仕として海軍省に出仕し事務課分課に配属された[1]。以後、九等出仕・横須賀造船所在勤、大秘書、少書記官、内局審按課長、総務局内記課長、海軍大臣秘書官、横須賀鎮守府長官秘書などを務め、1888年10月、海軍主計大監に昇進[1]。
その後、海軍大臣秘書官、横須賀鎮守府主計部長、佐世保鎮守府主計部長、同会計監督部長、同監督部長、横須賀鎮守府監督部長を歴任し、1897年5月16日、海軍主計総監に進級と同時に予備役に編入され、1905年11月4日後備役を経て、1910年11月4日に退役[1][6][7][8]。1919年9月23日、海軍武官官階表の改正により退役海軍主計少将に改称された[1]。
1904年8月22日、貴族院勅選議員に任じられ[9]、死去するまで在任した[6]。
栄典
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 高鍋町史編さん委員会編『高鍋町史』高鍋町、1987年。
- 内閣(大正8年)「海軍主計少将岩村兼善叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112873200