島津陸奥守
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島津陸奥守(しまづむつのかみ)は、日本の鎌倉時代に陸奥国名取郡と宮城郡、後の仙台の近辺に住んだと伝えられる武士である。陸奥守は官名で、実の名は不明。薩摩国の島津氏との関係も不明である。
解説
[編集]島津陸奥守については同時代的史料がなく、仙台の前史について書いた江戸時代の複数の史書・地誌に記される。短い記述をまとめれば、島津陸奥守は野手口山(大年寺山)にある茂峯城(茂ヶ崎城)に居り[1]、ついで千代城(仙台城)に移り住んだ[2]。文永元年(1264年)に島津陸奥守が天神社の社殿を小俵村(小田原村)の玉崎山中(現在の仙台東照宮がある地)に建てて移したという伝えもあるが[3]、移したのは別の人で島津陸奥守は再造したとする伝えもある[4]。後に彼は陸奥国を去り、対馬国に移った[5]。
地誌の一部は、島津氏の後に結城氏が仙台地方に城を構えたことも伝えている。戦国時代には国分氏が一帯を支配したことが確実なのだが、その国分氏の系図は、国分氏が鎌倉時代の初めから、戦国末の国分氏の領国とほぼ同じ地域を代々支配してきたと記す。島津氏・結城氏に関する伝えは、国分氏系図と矛盾するものである。
脚注
[編集]- ^ 『残月台本荒萩』巻之一(『仙台叢書』第1巻241頁)。
- ^ 『仙台鹿の子』(『仙台市史』第8巻214頁)。『残月台本荒萩』巻之一(『仙台叢書』第1巻241頁)。『封内風土記』巻之一(『仙台叢書封内風土記』復刻版第1巻8頁)。
- ^ 『奥羽観跡聞老誌』には「島津某」が移したとある(佐々木慶市「古代中世の仙台地方」248頁)。
- ^ 『封内風土記』は佐藤基春が玉手崎に移し、その後に島津陸奥守が再造したという(巻之一、『仙台叢書封内風土記』復刻版第1巻17-18頁)。
- ^ 『仙台鹿の子』(『仙台市史』第8巻214頁)。『封内風土記』には「西国に移住」とだけある(巻之一、『仙台叢書封内風土記』復刻版第1巻8頁)。