川勝広當
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永6年(1709年) |
死没 | 寛政2年2月17日(1790年4月1日) |
別名 | 縫殿助、左京(通称) |
戒名 | 宖禅(法名) |
墓所 | 東京都港区東麻布の瑠璃光寺 |
官位 | 従五位下、近江守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
氏族 |
本姓:秦氏、秦河勝後裔 名字:川勝氏 |
父母 | 川勝広豊 |
兄弟 | 広當 |
妻 | 正室:川勝広豊の娘 |
子 |
広顕(婿養子。永井直丘の三男)、 広長(婿養子。妻木頼直の二男)、 女子(広顕室)、女子(川勝隆忠室)、 女子(広長室)、女子(牛込勝音室)、 女子、女子 |
川勝 広當(かわかつ ひろまさ)は、江戸時代中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の6代当主。
生涯
[編集]宝永6年(1709年)、五井松平家当主(遠江国志都呂陣屋5500石)松平忠明の五男として江戸に生まれる。のちに川勝広豊の婿養子となった。実父の忠明は川勝家から五井松平家の養子となった人物(川勝広有の子)であり、広豊と広當は従兄弟の関係に当たる。
享保11年(1726年)4月5日、義父広豊の死去により家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、同年8月7日に初めて将軍徳川吉宗に謁見した。
寛保2年(1742年)10月15日、使番となり、同年12月18日に布衣を着る事を許された。延享元年(1744年)5月6日、城引渡しに関する命を受け、備中国松山に赴き同年3月に国替えとなった板倉勝澄に公儀の命令を伝えた。延享3年(1746年)4月6日、使者の命を受け日光山に行ったが、これは甚だしく地震があったためである。同年7月21日に小普請組支配に変わった。宝暦5年(1755年)8月28日、甲府勤番支配に移り、同年11月15日に従五位下、近江守に叙任した。宝暦13年(1763年)12月15日、持筒頭となった。
明和6年(1769年)12月10日、職を辞して寄合に列した。安永4年(1775年)5月10日に隠居し、隠居料として蔵米300俵を給わった。当初迎えた婿養子の広顕が28歳で早世したため、同じく婿養子の広長が家督を継いだ。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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