川勝氏令
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時代 | 江戸時代前期 - 江戸時代中期 |
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生誕 | 貞享元年(1684年) |
死没 | 宝暦5年7月25日(1755年9月1日) |
別名 | 主税、主馬(通称) |
戒名 | 綠壽(法名) |
墓所 | 東京都文京区小石川の光岳寺 |
官位 | 布衣(六位) |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗→家重 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝益氏、母:長尾氏 |
兄弟 | 氏令、広良、女子(武蔵義時室)、女子(大久保忠興室) |
妻 | 正室:徳山重俊の娘 |
子 | 氏方、女子(三好長憙室) |
川勝 氏令(かわかつ うじよし)は、江戸時代前期から中期の旗本。継氏系重氏流川勝家の4代当主。
生涯
[編集]貞享元年(1684年)、川勝益氏の嫡男として江戸に生まれた。宝永2年(1705年)7月晦日、父益氏の隠居により、その家督(丹波・武蔵内700石)を継ぎ、同年11月28日に初めて将軍徳川綱吉に拝謁した。
宝永3年(1706年)7月21日、小姓組に列した。宝永5年(1708年)3月9日より進物役を務め、同年6月16日桐間番にかわり、同年10月29日に小姓に進んだ。宝永6年(1709年)綱吉薨去のため、同年2月21日に小姓組に戻り、同年4月11日より進物役を務めた。享保9年(1724年)8月5日、徒頭に進み、同年12月18日に布衣を着る事を許された。享保11年(1726年)3月、将軍徳川吉宗が小金原に遊猟した際は他の旗本らと共に付き従い、享保13年(1728年)4月の日光社参にも供奉した[1]。寛保元年(1741年)10月朔日、先手鉄砲頭に任じられた。
宝暦5年(1755年)7月25日、72歳で没した。家督は嫡男の氏方が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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