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川勝氏令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝氏令
時代 江戸時代前期 - 江戸時代中期
生誕 貞享元年(1684年
死没 宝暦5年7月25日1755年9月1日
別名 主税、主馬(通称)
戒名 綠壽(法名)
墓所 東京都文京区小石川の光岳寺
官位 布衣(六位)
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
氏族 川勝氏
父母 父:川勝益氏、母:長尾氏
兄弟 氏令広良、女子(武蔵義時室)、女子(大久保忠興室)
正室:徳山重俊の娘
氏方、女子(三好長憙室)
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川勝 氏令(かわかつ うじよし)は、江戸時代前期から中期の旗本。継氏系重氏流川勝家の4代当主。

生涯

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貞享元年(1684年)、川勝益氏の嫡男として江戸に生まれた。宝永2年(1705年)7月晦日、父益氏の隠居により、その家督(丹波武蔵内700石)を継ぎ、同年11月28日に初めて将軍徳川綱吉に拝謁した。

宝永3年(1706年)7月21日、小姓組に列した。宝永5年(1708年)3月9日より進物役を務め、同年6月16日桐間番にかわり、同年10月29日に小姓に進んだ。宝永6年(1709年)綱吉薨去のため、同年2月21日に小姓組に戻り、同年4月11日より進物役を務めた。享保9年(1724年)8月5日、徒頭に進み、同年12月18日に布衣を着る事を許された。享保11年(1726年)3月、将軍徳川吉宗が小金原に遊猟した際は他の旗本らと共に付き従い、享保13年(1728年)4月の日光社参にも供奉した[1]寛保元年(1741年)10月朔日、先手鉄砲頭に任じられた。

宝暦5年(1755年)7月25日、72歳で没した。家督は嫡男の氏方が継いだ。


脚注

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  1. ^ 寛文3年(1663年)4月の徳川家綱の社参以来、65年ぶりの将軍日光社参であった。

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年


先代
益氏
川勝継氏系重氏流
4代:1705年 - 1755年
次代
氏方