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川越守二

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川越 守二(かわごえ もりじ、1895年明治28年)1月25日[1][2] - 1976年昭和51年)12月20日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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鹿児島県出身[1][2][3]。農業・川越半之丞の五男として生まれた[1]。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる[1][4]。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業[1]。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した[1][2][3]

1925年(大正14年)8月、野砲兵第1連隊中隊長に就任[1]。1926年(大正15年)3月、参謀本部付勤務となり、関東軍幕僚付、第6師団参謀を務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵少佐に進級し野砲兵第6連隊大隊長に就任[1]。1932年(昭和7年)8月、陸軍省人事局付となり、陸軍野戦砲兵学校教官を務め、1936年(昭和11年)8月、砲兵中佐、1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵学校教導連隊長に就任した[1][3]

1939年(昭和14年)3月、砲兵監部員に転じ、1940年(昭和15年)12月、第48師団参謀長に就任[1][3]太平洋戦争に出征し、フィリピンの戦い蘭印作戦に参戦した[2]。1942年(昭和17年)8月、陸軍少将に進んだ[1][3]。1943年(昭和18年)5月、東部軍司令部付となり帰国[1][2][3]。1944年(昭和19年)6月、第1船舶輸送司令部大阪支部長に就任し、大阪輸送統制部長を兼務し、1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進級した[1][2][3]。終戦後の同年9月、中部憲兵隊司令官に発令された[1]。同年11月に復員[1]

その後、中部復員監部業務部長、近畿上陸地支局長、中部復員連絡局長を歴任した[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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勲章

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、50頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』231頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』394頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、394頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  6. ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。