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市橋長利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
市橋長利
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年(1513年
死没 天正13年3月13日1585年4月12日
改名 長利、壱斎/一斎(斎号)、宗竹(法名)
別名 九郎左衛門[2]、九郎右衛門[3]、壱岐守(通称
戒名 節爺宗竹[4]
墓所 大徳寺総見院
官位 壱岐守
主君 織田信長信忠羽柴秀吉
氏族 市橋氏(藤原氏支流/三条家末流[5]または清和源氏[7]
父母 市橋利尚[6][8]または市橋時盛[9]
一説に前田利昌娘
女(林右衛門左衛門室)、 長勝
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市橋 長利(いちはし ながとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田信長の家臣。美濃国青柳城主、後に福束城主。通称は九郎右衛門または九郎左衛門、壱岐守。一斎とも号した。

略歴

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美濃市橋氏は、藤原氏支流(三条家末流[5])とも清和源氏頼親流[7]ともいうが、美濃国池田郡市橋の庄を領したことからその名がある[8]美濃斎藤氏が没落するより早くから織田氏に属した[1]織田信長に仕えた「市橋」某が永禄6年(1563年)4月24日、高木貞久の降伏を信長に仲介している[10]

信長の入京後、九郎右衛門(長利)は近臣として活躍[1]。信長馬廻だが、西美濃の三人衆に次ぐ存在[1]

永禄12年(1569年)8月、伊勢大河内城攻めに参加。元亀元年(1570年)6月の近江小谷城攻め、続く佐和山城攻めに参加。元亀2年(1571年)の長島攻め、翌3年(1572年)の小谷城攻め、天正元年(1573年)の浅井家を滅亡させた8月の戦いにも参加した[1]

天正3年(1575年)11月、信長が嫡男の信忠に家督を譲ると信忠直属となったらしい[1]

天正6年(1578年)正月、信長の茶事に招かれ、芙蓉の絵を賜る[11]。同年6月、信忠の命令で播磨国の砦の警護に置かれた[1]

天正8年(1580年)、信長より米銭の債権を安堵されたときに、「壱斎(一斎)」と号している[1]

本能寺の変では明智光秀に呼応せず織田方となり、羽柴秀吉が台頭すると秀吉に従って、天正12年(1584年)2月に河内国交野郡星田庄や美濃池田郡などの所領を安堵された。

天正13年(1585年)3月13日に死去。享年73。法名を節爺宗竹[4]、京都紫野にある大徳寺塔頭総見院に葬られた[12]。跡は嫡男の長勝が継いだ。

系譜

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  • 父:市橋利尚[6][8]または市橋時盛(晴盛、兵庫允)[9]
  • 正室:某氏、一説に前田利昌娘
  • 生母不明の子女
    • 女子:林右衛門左衛門某室 - 子の長政が養嗣子となって長勝の跡を継ぐ。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 谷口 1995, p. 56.
  2. ^ 『寛永諸家系図伝』『市橋長勝家譜』および『寛政重脩諸家譜』による[1]
  3. ^ 信長公記』による[1]
  4. ^ a b 加藤国光 1997, p. 535.
  5. ^ a b 『市橋長勝家譜』および『寛政重脩諸家譜』。
  6. ^ a b c 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、534頁。ISBN 9784797105551 
  7. ^ a b 『美濃国明細記』収蔵の市橋系図による[6]
  8. ^ a b c 太政官正院歴史課 1873, p. 2.
  9. ^ a b 加藤国光 1997, p. 533.
  10. ^ 『高木文書』による[1]
  11. ^ 『信長公記』
  12. ^ 堀田 1923, p. 817.

参考文献

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