市橋長利
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正10年(1513年) |
死没 | 天正13年3月13日(1585年4月12日) |
改名 | 長利、壱斎/一斎(斎号)、宗竹(法名) |
別名 | 九郎左衛門[2]、九郎右衛門[3]、壱岐守(通称) |
戒名 | 節爺宗竹[4] |
墓所 | 大徳寺総見院 |
官位 | 壱岐守 |
主君 | 織田信長→信忠→羽柴秀吉 |
氏族 | 市橋氏(藤原氏支流/三条家末流[5]または清和源氏[7]) |
父母 | 市橋利尚[6][8]または市橋時盛[9] |
妻 | 一説に前田利昌娘 |
子 | 女(林右衛門左衛門室)、 長勝 |
市橋 長利(いちはし ながとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の家臣。美濃国青柳城主、後に福束城主。通称は九郎右衛門または九郎左衛門、壱岐守。一斎とも号した。
略歴
[編集]美濃市橋氏は、藤原氏支流(三条家末流[5])とも清和源氏頼親流[7]ともいうが、美濃国池田郡市橋の庄を領したことからその名がある[8]。美濃斎藤氏が没落するより早くから織田氏に属した[1]。織田信長に仕えた「市橋」某が永禄6年(1563年)4月24日、高木貞久の降伏を信長に仲介している[10]。
信長の入京後、九郎右衛門(長利)は近臣として活躍[1]。信長馬廻だが、西美濃の三人衆に次ぐ存在[1]。
永禄12年(1569年)8月、伊勢大河内城攻めに参加。元亀元年(1570年)6月の近江小谷城攻め、続く佐和山城攻めに参加。元亀2年(1571年)の長島攻め、翌3年(1572年)の小谷城攻め、天正元年(1573年)の浅井家を滅亡させた8月の戦いにも参加した[1]。
天正3年(1575年)11月、信長が嫡男の信忠に家督を譲ると信忠直属となったらしい[1]。
天正6年(1578年)正月、信長の茶事に招かれ、芙蓉の絵を賜る[11]。同年6月、信忠の命令で播磨国の砦の警護に置かれた[1]。
天正8年(1580年)、信長より米銭の債権を安堵されたときに、「壱斎(一斎)」と号している[1]。
本能寺の変では明智光秀に呼応せず織田方となり、羽柴秀吉が台頭すると秀吉に従って、天正12年(1584年)2月に河内国交野郡星田庄や美濃池田郡などの所領を安堵された。
天正13年(1585年)3月13日に死去。享年73。法名を節爺宗竹[4]、京都紫野にある大徳寺の塔頭・総見院に葬られた[12]。跡は嫡男の長勝が継いだ。
系譜
[編集]- 父:市橋利尚[6][8]または市橋時盛(晴盛、兵庫允)[9]
- 正室:某氏、一説に前田利昌娘
- 長男:市橋長勝(1557-1620)
- 生母不明の子女
- 女子:林右衛門左衛門某室 - 子の長政が養嗣子となって長勝の跡を継ぐ。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 谷口 1995, p. 56.
- ^ 『寛永諸家系図伝』『市橋長勝家譜』および『寛政重脩諸家譜』による[1]。
- ^ 『信長公記』による[1]。
- ^ a b 加藤国光 1997, p. 535.
- ^ a b 『市橋長勝家譜』および『寛政重脩諸家譜』。
- ^ a b c 加藤国光 編『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、534頁。ISBN 9784797105551。
- ^ a b 『美濃国明細記』収蔵の市橋系図による[6]。
- ^ a b c 太政官正院歴史課 1873, p. 2.
- ^ a b 加藤国光 1997, p. 533.
- ^ 『高木文書』による[1]。
- ^ 『信長公記』
- ^ 堀田 1923, p. 817.
参考文献
[編集]- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、56頁。ISBN 4642027432。
- 太政官正院歴史課: “市橋長勝家譜”. 東京大学史料編纂所 (1873年). 2022年1月11日閲覧。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 藤原氏支流市橋氏」『寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、817頁 。