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市河米庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
市河米庵像(部分) 渡辺崋山筆 絹本著色 京都国立博物館蔵 重要文化財

市河 米庵(いちかわ べいあん、安永8年9月16日1779年10月25日[1] - 安政5年7月18日1858年8月26日[1])は、江戸時代後期の日本の書家漢詩人

名は三亥[1]は孔陽[1]は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など[1]通称は小左衛門[1]。また米葊河とも呼ぶ。

略歴

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一行隷書「景幽佳兮足真賞」

漢詩人市河寛斎の長子[1][2]。安永8年(1779年)、己亥九月の日(9月16日)の亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので、三亥と名付けられた[1]

幼少期から父の薫陶を受け、寛政7年(1795年)頃に林述斎の門下に入り、柴野栗山に師事した[1]。書を好み、宋代の書家米芾を尊崇したため、米庵と号した[1]長崎に遊学し清国胡兆新に学ぶ。寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた[1]。その後、和泉橋藤堂侯西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張藩徳川氏筑前福岡藩黒田氏津藩藤堂氏徳山藩毛利氏鯖江藩間部氏などの大名にも指南を行った。

書の流派である江戸唐様派の大家として、同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777年 - 1843年)、京都の貫名海屋(1778年 - 1863年)とともに幕末の三筆に数えられる[1]

文化8年(1811年)に富山藩に仕え[1]文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え[1]、江戸と金沢を往復し指導に当たった。嘉永3年(1850年)に致仕し[1]、養子の遂庵が家督を継いだ[1]

継子には恵まれず、はじめ稲毛屋山の子恭斎(きょうさい、1796年 - 1833年)を養子に迎えるが夭折してしまい、次いで遂庵(いちかわ すいあん、1804年 - 1884年)を迎えた。しかし、米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838年 - 1907年)を授かる。

安政5年(1858年)歿、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。

余技に篆刻を嗜み、印譜『爽軒試銕』がある。文房清玩に凝り、書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。『米庵墨談』など多数の著述がある。石碑の文字も多くを手がけ、現在全国に50基以上の石碑が確認されている。

『新註 墨場必携』(大文館書店版)を編纂している。

門弟

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著述

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  • 『米庵墨談』
  • 『米庵蔵筆譜』
  • 『毛信遊草』
  • 『西遊小草』
  • 『米庵百記』
  • 『米庵石律』
  • 『楷行薈編』
  • 『小山林堂文房図録』

蔵書印

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  • 河氏珍賞
  • 米庵所蔵

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第1巻』岩波書店、1983年10月、171頁。 
  2. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、120頁。 

参考文献

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  • 市川三陽著 『市河米庵伝』「東洋文化」昭和14年3月; 市川三次訂「書道研究」1991年2, 3月号
  • 林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』勝山城博物館 2017年4月
楽志論屏風 東京国立博物館