コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

帝國車輛工業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
車内銘板の一例
南海7000系電車
この一つ前のデザインは水色と黄色のカラフルなものであった[1]

帝國車輛工業株式会社(ていこくしゃりょうこうぎょう)は、かつて大阪府堺市に本社を構えた鉄道車両メーカー。「帝国車輌(略称:帝車)」と呼ばれた。

概要

[編集]

1890年明治23年)頃(創業年については諸説あり[注 1])、堺市で冶金業を営んでいた梅鉢安太郎[注 2]大鳥郡向井村(現・堺市堺区)に個人工場として梅鉢鐵工所(うめばちてっこうしょ)を創業。創業時は主に地方都市の路面電車客車、鉄道関連機器を中心に製作した。1908年(明治41年)には国産初となるダイヤモンドクロッシング分岐器を製作した[注 3]。1909年(明治42年)ポイントクロッシング、1914年(大正3年)にインターロッキングの指定工場となる[5][6]

その後大都市の路面電車なども手がけ、1921年大正10年)に鉄道省客車指定工場[注 4]となるなど発展の道を歩んでいった梅鉢[注 5][注 6]は当時の日本の統治地域台湾満洲朝鮮)での鉄道車両の需要が高くなってきたことから、本格的に鉄道車両製造に参入、1936年昭和11年)に株式会社化と同時に梅鉢車輛株式會社(うめばちしゃりょう)[注 7]に改称するが、1939年(昭和14年)に京成電気軌道(現・京成電鉄)の傘下に入る[注 8]1940年(昭和15年)には泉北郡鳳町(現・堺市西区)に開設された鳳工場へ移転し、1941年(昭和16年)に帝國車輛工業株式會社[注 9]に改称した。1946年(昭和21年)、京成電鉄の傘下を離れた。

戦後は国鉄キハ20系グループや南海電気鉄道11001系などを製造したが、1968年(昭和43年)に東急車輛製造合併[注 10]した。

なお、鳳工場改め東急車輛製造大阪製作所は、鉄道車両製造部門を横浜製作所(現・総合車両製作所横浜事業所)に移管したため特殊自動車や鉄道関連機器の製造のみに携わったが、2003年平成15年)に廃止され、和歌山製作所[注 11]に移転した。跡地は政府の緊急都市基盤整備地域に指定され、ショッピングセンターアリオ鳳イトーヨーカ堂を核とするショッピングセンター)がオープンした他、高層マンションをはじめとする住宅や南花田鳳西町線(道路)が整備された。一方、和歌山製作所は東急車輛製造が事業を分割譲渡した際に鉄道車両事業を継承した新東急車輛改め総合車両製作所JR東日本に売却)が譲受し和歌山事業所に改名され、コンテナや分岐器などの鉄道関連機器を専ら製造している[注 12]

工場

[編集]

 初代 

  • 本社・西工場 – 大阪府堺市堺区七道東町(鍛冶場・ポイント工場・機械職場・旋盤職場 など)
  • 東工場 – 大阪府堺市堺区砂道町(製材職場・鋳物場・建具職場・塗装職場・車両組立場 など)

東西両工場間とそれぞれの職場間を線路でつなぎ、車両組立場横の東門からは、南海鉄道浅香山駅まで専用線が伸びていた。また、西工場と東工場の間を阪堺線が通っていたため、工場内専用線と阪堺線との平面交差が存在していた。

  • 鳳工場 - 大阪府堺市西区鳳南町

鉄道車両

[編集]

戦前は主に路面電車や客車、気動車、それに鉄道関連機器を製作し、後には高速電車を多数製作した。 路面電車においては、最初期の製品として京都電気鉄道向けが著名であり、現在博物館明治村にて動態保存されているN電(1,2)も1911年(明治44年)の梅鉢製である(京都電気軌道創業当時の車両ではない)。

また、気動車においては南越鉄道、赤穂鉄道西大寺鉄道井笠鉄道、そして熊延鉄道など、西日本の中小鉄道を主体に堅牢な車体を備えた車両を供給した。特に南越鉄道ガ1は日本国内における1067mm軌間最初のものであり、また日本最初の両運転台式ガソリン動車でもあった。また、これらは寿命の長い物が多く、機関換装などの改造は実施されたものの、その最後の現役車両となった井笠鉄道ホジ7〜9は、実に1971年の同社線全廃まで在籍した。

高速電車では後発であったが、南海鉄道山手線クタ7000など、鉄道省客車指定工場としての経験を生かして当時の水準以上の車両製作に携わっており、その流れで戦後製作した国鉄80系電車は、他社製と見比べると一目でわかるほどの抜群の車体の仕上がりの良さ。とりわけ外板歪みの少ない鋼製車体を激賞された[誰によって?]

このため国鉄からも複数形式の車両を製造する際、特に美観に優れることの望ましい優等車製作に抜擢されることがしばしばあった。

戦後は国鉄の気動車電車[注 13]、大手私鉄では南海電気鉄道、帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄)、京成電鉄の電車、それに近隣のナニワ工機(現・アルナ車両)と分担して共通設計で中小私鉄・路面電車向け車両などを製造した。なお、帝国車輌時代からの取引の名残[注 14]で、南海、そして後年分離した子会社の阪堺電気軌道の車両は吸収合併後も東急車輛製造で製造されていた[注 15]。ただし、合併前にも南海6000系電車などが東急車輛製造で製造されている。1946年に資本関係がなくなった後も京成との関係は深く、1968年の東急車輛製造への吸収まで、1600形の新製車除く京成電鉄の各形式の約半数を製造した。また、当社が製造した西武鉄道向け車両の艤装を京成の車両工場技術者が西武の工場まで出張して行なう事もあったという(京成向け車両の艤装は京成の工場で行なっていた)[12]。吸収合併後も、東急車輛・総合車両が京成の新製車の約半数を製造している[注 16]

車内銘板プレートは3つのデザインがあり、とくにスカイブルーを基調とした2代目銘板は3パターンもある。

蒸気機関車

[編集]

梅鉢で作られた機関車は数が少ないが信越化学工業直江津工場に「昭和十八年 梅鉢鉄工所」なる銘版をつけた蒸気機関車がいた[13](1966年DL化により廃車解体[14])。1943(昭和18)年当時、既に梅鉢はなく同好者からはお化けといわれていた。臼井茂信によると梅鉢安太郎は息子に分工場[注 17]をもたせておりそれらが1945年まで梅鉢として残っており蒸気機関車を製作したのだという[16]

戦前の製造実績

[編集]
年度 客車 電車 貨車 内燃動車
1904 8 4
1919 88 263
1920 199 64
1921 196 35
1922 125 46
1923 145 45
1925 25
1930 12 23 7
1931 8 10 9
1932 8 2
1933 4 12
1934 10 12
1935 19 2 170
1936 20 29 187
  • 1935年貨車のうち50両は満鉄・満州国向け
  • 1936年貨車のうち30両は満鉄・満州国向け
  • 沢井実『日本鉄道車輌工業史』日本経済評論社、1998年、37、96-97、140-142、180-181頁

戦後製造された主な車両

[編集]

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 阪堺鉄道から線路用具の製作を委託されたのが明治22年としている[2]
  2. ^ 1937年ころ大阪府多額納税者、堺商工会議所顧問、堺産業無尽取締役[3]
  3. ^ 明治42年の職工数50人[4]
  4. ^ 同年には新潟鉄工所、田中車輛(現・近畿車輛)、藤永田造船所も指定工場になっており、改正鉄道敷設法をむかえ車両を確保する必要からとみられる[7]
  5. ^ このころの職工239人[8]
  6. ^ 鉄道省の公文書ではこの他梅鉢鐵工場(うめばちてっこうじょう)あるいは梅鉢工場(うめばちこうじょう)と社名を記載した例が見られる。この事実が示すとおり、創業から梅鉢車輛への改組までの個人経営時代の正式社名については諸説があり、この頃の鉄道時報等に掲載された広告や関係者の証言でもバラバラに用いられていたことから、社名については非常にルーズな取り扱いがなされていたことが判る。ただし、各社の車両竣工図においては梅鉢鐵工所名義での記載が大半を占めており、また車両銘板でもこの名義での表記が多数派であったため、一般、特に鉄道趣味者の間では梅鉢鉄工所と呼び習わされていた。
  7. ^ 社長梅鉢安太郎[9]
  8. ^ 株数12万株のうち59900株保有[10]
  9. ^ 社長は京成電気の後藤圀彦[11]
  10. ^ 書類上は東急車輛製造との対等合併だが、事実上東急車輛製造への吸収であった。
  11. ^ 和歌山県紀の川市、当時は那賀郡打田町
  12. ^ 特殊自動車については東急車輛製造の特装自動車事業を継承した東急車輛特装改め東邦車輛(新明和工業に売却)に集約された。また軌道関連部品については2018年度末をもって撤退している。
  13. ^ 当初は電車も手がけたが、後に気動車の指定メーカーとなった。この事は同様に気動車の指定メーカーであった東急車輌との合併の一因となった。
  14. ^ 京成が東急車輛との取引を開始したのは帝國・東急車輛合併後からである。
  15. ^ 東急車輛製造が総合車両製作所横浜事業所となった後も南海8000系を製造している。
  16. ^ なお、京成の関連会社においては新京成電鉄初の自社発注車は東急製であった(ただし初の新性能電車である800形以降は日本車輌製造に集約)他、北総鉄道の新製車の一部が東急製となっている。
  17. ^ 例えば昭和8年設立代表梅鉢安重梅鉢機械製作所が確認できる[15]
  18. ^ 製造時は南海電気鉄道。
  19. ^ モ571〜573の3両。
  20. ^ 1752・1754・1755の3両。
  21. ^ 613〜616の4両。
  22. ^ モハ70〜78の9両。
  23. ^ 204・205の2両。
  24. ^ ナニワ工機製クハ22の同型車。
  25. ^ ナニワ工機と2両ずつ2回、同型車を分担して製作。
  26. ^ 一部のみ。
  27. ^ 軌間が日本国有鉄道の在来線と同じ1,067 mm(狭軌)のため、日本の国鉄の路線上で試運転をしたのちに輸出。動力Mc車 - 付随R車(T) - 動力Mc車であり、機関を搭載し“Teikoku Car”のエンブレムが設置された大きなラジエーターグリルが特徴の先頭・動力Mc車のみの運用も可能。

出典

[編集]
  1. ^ 南海電鉄 インターネットオークション”. 南海電気鉄道 (2021年2月). 2021年2月23日閲覧。
  2. ^ 『堺市史. 第3巻 本編 第3』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 『人事興信録. 第11版(昭和12年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 『工場通覧. 2冊 明治42年12月末日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 『堺市史. 第3巻 本編 第3』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 『日本鉄道車輌工業史』99頁
  7. ^ 『日本鉄道車輌工業史』99-100頁
  8. ^ 『工場通覧. 大正10年11月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 『日本全国銀行会社録. 第45回(昭和12年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 『東洋経済株式会社年鑑. 第20回(昭和17年版)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 『日本全國銀行會社録. 第50回 下卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 石本祐吉 「京成電鉄とともに - OBの方々に聞く往年の京成 - 」『鉄道ピクトリアル』787号、2007年、120頁。
  13. ^ 高井薫平『小型蒸気機関車全記録』講談社、2012年、168頁
  14. ^ 汽車くらぶ「私鉄・専用線の蒸気機関車」『鉄道ジャーナルNo.79』
  15. ^ 『全国工場通覧. 昭和10年版 機械・瓦斯電気篇』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 臼井茂信「機関車の系譜図 3」交友社、1972年、415頁