平業房
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時代 | 平安時代末期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 治承3年(1180年)12月 |
官位 | 正五位下、左衛門佐 |
氏族 | 伊勢平氏 |
父母 | 父:平盛房 |
妻 | 高階栄子[1] |
子 | 業兼、山科教成、女子、女子、女子[2] |
平 業房(たいら の なりふさ)は、平安時代末期の武士。斎院司次官・平盛房の長男。後白河院の近臣。
経歴
[編集]法住寺殿行われた今様の会に出席するなど[3]、今様を通じて後白河上皇の寵愛を受けるようになったとみられる[4]。
仁安2年(1167年)には衛門尉として建春門院家の侍の中にその名が見え[5]、同年2月には検非違使宣旨を蒙る。仁安4年(1169年)熊野御幸に供奉した[6]
安元元年(1175年)相模守の官職にあったが、自ら造営した浄土寺に後白河法皇と建春門院の御幸を仰いだ[7]。治承元年(1177年)正月に木工頭に任ぜられるが、同年6月に発生した鹿ヶ谷の政変により解官される。この際に多くの院近臣が処分を受けたが、業房だけは後白河法皇の懇願によって平清盛に釈放され、世間に驚きをもって受け取られた[8]
治承3年(1179年)正月に正五位下・左衛門佐に叙任される。しかし、同年11月の治承三年の政変により再び解官され、伊豆国への配流に処されるが、途中で逃亡する[3]。同年12月に清水寺の僧房にて兵衛尉・藤原知綱に捕らえられ[9]、権大納言・平宗盛のもとで拷問を受けた末に殺害された[10]。
業房の死後、妻の栄子は後白河法皇に出仕してその寵愛を受けて覲子内親王(宣陽門院)を生んだことで、異父兄である業成の息子も登用されることになった。
文治2年(1186年)7月に浄土寺付近の堂で供養が行われている[10]。
肖像画
[編集]神護寺三像などと共に、神護寺が肖像画を所蔵していたと伝わっているが、現存していない。
官歴
[編集]- 仁安2年(1167年) 正月20日:見左衛門尉[11]。2月24日:検非違使宣旨[7]
- 安元元年(1175年) 8月11日:見相模守[7]
- 安元3年(1177年) 正月8日:木工頭[7]。6月:解官(鹿ヶ谷の政変)
- 治承3年(1179年) 正月5日:正五位下[12]。正月19日:左衛門佐[12]。11月18日:解官、流罪伊豆国(治承三年の政変)[7]。12月:卒去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 11』吉川弘文館〈故実叢書 第3輯〉、1904年 。
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。
- 阿部猛『日本古代人名辞典』東京堂出版、2009年。ISBN 4490107617。
- 斉賀万智「後白河院説話の周辺に関する一考察―六条西洞院とその周辺の人々の関係性から―」『国文学研究ノート』第53号、神戸大学「研究ノート」の会、2014年10月、17-31頁、doi:10.24546/81008687、ISSN 0385-8189、NAID 110009921643。