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藤原宗隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原宗隆
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 仁安元年(1166年
死没 元久2年3月29日1205年4月19日
別名 梅小路中納言
官位 正三位権中納言
主君 高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 葉室家
父母 父:藤原長方、母:信西の娘
兄弟 宗隆長兼時長兼高長隆、顕瑜、乗願
平業房の娘
宣宗姉小路宗房長宗、敬仁、賢宗、顕宗
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藤原 宗隆(ふじわら の むねたか)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿権中納言藤原長方の長男。官位正三位・権中納言。

経歴

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嘉応2年(1170年従五位下叙爵承安4年(1174年甲斐守に任ぜられる。秩満すると、治承2年(1178年備後守に任ぜられ、治承3年(1179年治承三年の政変にて甲斐守・藤原為明が解官されると、甲斐守に再任した。治承5年(1181年)父の譲りで従五位上に叙される。

寿永2年(1183年淡路守に任ぜられる。寿永3年(1184年正五位下勘解由次官に叙任され、五位蔵人に補任。文治5年(1189年右少弁を務め、左衛門権佐を兼ねる。検非違使別当を経て、文治6年(1190年)左少弁に転じた。建久5年(1194年従四位下・権右中弁。

建久6年(1195年)従四位上に叙されるが、不仕により除籍される。その後、右中弁、左中弁に転任し、装束使・氏院別当・修理左宮城使を歴任した。

建久9年(1198年正四位下蔵人頭に叙任される。同年中に参議に任ぜられて公卿に列し、左大弁に転じる。建久10年(1199年)に入り、勘解由長官・備後権守を兼帯。正治2年(1200年従三位に叙され、建仁元年(1201年)権中納言に進む。建仁2年(1202年)正三位に至る。

元久2年(1205年)3月頃から病になり、3月27日に出家。翌日40歳で薨去した[1]。死後の嘉禄2年(1226年)の火災で宗隆の和漢文庫が焼亡している[2]

千載和歌集』に宗隆の詠んだ和歌が一首ながら入集している。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 嘉応2年(1170年)12月5日:従五位下に叙す(皇后宮嘉応元年未給)。
  • 承安4年(1174年)正月24日:甲斐守に任ず。
  • 治承2年(1178年)正月28日:備後守に任ず。
  • 治承3年(1179年)12月12日:甲斐守に任ず(藤爲明解官替)。
  • 治承5年(1181年)3月26日:従五位上に叙す(長方譲)。
  • 寿永2年(1183年)8月16日:淡路守に任ず(平清房解官譲)。
  • 寿永3年(1184年)正月6日:正五位下に叙す(八条院承安元年未給)。12月15日:五位蔵人に補し、勘解由次官に任ず。
  • 文治2年(1186年)8月1日:院昇殿を聴す。
  • 文治5年(1189年)7月10日:右少弁に任ず。9月16日:左衛門権佐を兼ぬ(蔵人弁官如元)。9月17日:使宣旨を蒙る。
  • 文治6年(1190年)正月24日:左少弁に転ず(今日蔵人佐を辞す)。
  • 建久2年(1191年)2月:服解す。5月2日:復任す。
  • 建久5年(1194年)9月17日:権右中弁に転じ、従四位下に叙す。
  • 建久6年(1195年
    • 4月7日:従四位上に叙す(稲荷祇園行幸賞)。
    • 5月29日:不仕に依り除籍。
    • 11月12日:右中弁に転ず。
    • 12月9日:左中弁に転ず。
    • 12月16日:装束使と為す。
  • 建久7年(1196年)2月1日:修理左宮城使を兼ぬ。12月5日:氏院別当に補す。
  • 建久9年(1198年)正月30日:蔵人頭に補す。2月26日:正四位下に叙す(臨時)。12月9日:参議に任じ、左大弁に転ず。
  • 建久10年(1199年)3月24日:勘解由長官を兼ぬ。備後権守を兼ぬ。
  • 正治2年(1200年)正月5日:従三位に叙す(大弁労)。
  • 建仁元年(1201年)8月19日:権中納言に任ず。
  • 建仁2年(1202年)11月24日:正三位に叙す。
  • 元久2年(1205年)3月27日:出家。3月28日:薨ず。

系譜

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脚注

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  1. ^ 明月記元久2年3月28日条
  2. ^ 百錬抄嘉禄2年8月18日条