藤原宗隆
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 仁安元年(1166年) |
死没 | 元久2年3月29日(1205年4月19日) |
別名 | 梅小路中納言 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 葉室家 |
父母 | 父:藤原長方、母:信西の娘 |
兄弟 | 宗隆、長兼、時長、兼高、長隆、顕瑜、乗願 |
妻 | 平業房の娘 |
子 | 宣宗、姉小路宗房、長宗、敬仁、賢宗、顕宗 |
藤原 宗隆(ふじわら の むねたか)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権中納言・藤原長方の長男。官位は正三位・権中納言。
経歴
[編集]嘉応2年(1170年)従五位下に叙爵。承安4年(1174年)甲斐守に任ぜられる。秩満すると、治承2年(1178年)備後守に任ぜられ、治承3年(1179年)治承三年の政変にて甲斐守・藤原為明が解官されると、甲斐守に再任した。治承5年(1181年)父の譲りで従五位上に叙される。
寿永2年(1183年)淡路守に任ぜられる。寿永3年(1184年)正五位下・勘解由次官に叙任され、五位蔵人に補任。文治5年(1189年)右少弁を務め、左衛門権佐を兼ねる。検非違使別当を経て、文治6年(1190年)左少弁に転じた。建久5年(1194年)従四位下・権右中弁。
建久6年(1195年)従四位上に叙されるが、不仕により除籍される。その後、右中弁、左中弁に転任し、装束使・氏院別当・修理左宮城使を歴任した。
建久9年(1198年)正四位下・蔵人頭に叙任される。同年中に参議に任ぜられて公卿に列し、左大弁に転じる。建久10年(1199年)に入り、勘解由長官・備後権守を兼帯。正治2年(1200年)従三位に叙され、建仁元年(1201年)権中納言に進む。建仁2年(1202年)正三位に至る。
元久2年(1205年)3月頃から病になり、3月27日に出家。翌日40歳で薨去した[1]。死後の嘉禄2年(1226年)の火災で宗隆の和漢文庫が焼亡している[2]。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 嘉応2年(1170年)12月5日:従五位下に叙す(皇后宮嘉応元年未給)。
- 承安4年(1174年)正月24日:甲斐守に任ず。
- 治承2年(1178年)正月28日:備後守に任ず。
- 治承3年(1179年)12月12日:甲斐守に任ず(藤爲明解官替)。
- 治承5年(1181年)3月26日:従五位上に叙す(長方譲)。
- 寿永2年(1183年)8月16日:淡路守に任ず(平清房解官譲)。
- 寿永3年(1184年)正月6日:正五位下に叙す(八条院承安元年未給)。12月15日:五位蔵人に補し、勘解由次官に任ず。
- 文治2年(1186年)8月1日:院昇殿を聴す。
- 文治5年(1189年)7月10日:右少弁に任ず。9月16日:左衛門権佐を兼ぬ(蔵人弁官如元)。9月17日:使宣旨を蒙る。
- 文治6年(1190年)正月24日:左少弁に転ず(今日蔵人佐を辞す)。
- 建久2年(1191年)2月:服解す。5月2日:復任す。
- 建久5年(1194年)9月17日:権右中弁に転じ、従四位下に叙す。
- 建久6年(1195年)
- 4月7日:従四位上に叙す(稲荷祇園行幸賞)。
- 5月29日:不仕に依り除籍。
- 11月12日:右中弁に転ず。
- 12月9日:左中弁に転ず。
- 12月16日:装束使と為す。
- 建久7年(1196年)2月1日:修理左宮城使を兼ぬ。12月5日:氏院別当に補す。
- 建久9年(1198年)正月30日:蔵人頭に補す。2月26日:正四位下に叙す(臨時)。12月9日:参議に任じ、左大弁に転ず。
- 建久10年(1199年)3月24日:勘解由長官を兼ぬ。備後権守を兼ぬ。
- 正治2年(1200年)正月5日:従三位に叙す(大弁労)。
- 建仁元年(1201年)8月19日:権中納言に任ず。
- 建仁2年(1202年)11月24日:正三位に叙す。
- 元久2年(1205年)3月27日:出家。3月28日:薨ず。