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平行高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平 行高(たいら の ゆきたか、永仁4年(1296年) - 没年不詳)は、鎌倉時代から建武の新政期にかけての公家桓武平氏高棟王流、右少弁平仲高の子。祖父の権中納言平仲兼の養子。官位従三位左大弁

経歴

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永仁7年(1299年従五位下に叙爵。徳治2年(1307年右兵衛権佐に任ぜられると、のち衛門権佐(検非違使佐)と武官を歴任し、徳治3年(1308年)従五位上、延慶2年(1309年正五位下と昇進した。また、正和4年(1315年持明院統花園天皇五位蔵人に補せられている。

文保2年(1318年)3月に大覚寺統後醍醐天皇即位するも引き続き五位蔵人を務める。同年6月に左大臣近衛経平が没したために、出仕できなくなり一旦辞職するが、翌元応元年(1319年)9月に五位蔵人に復す。元応2年(1320年)左少弁に任官すると、同年中に従四位下・権右中弁、元応3年(1321年)従四位上・右中弁、元享4年(1324年正四位下・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進した。正中2年(1325年)右大弁を辞任して散位となる。元徳2年(1330年従三位に叙せられ公卿に列した。

元弘元年(1331年元弘の変により後醍醐天皇が廃され、持明院統の光厳天皇が即位すると、翌元弘2年(1332年)行高は正三位・左大弁に叙任される。しかし、翌正慶2年(1333年)後醍醐天皇が復位して建武の新政を開始すると光厳朝の叙任は取り消されたため、行高は従三位に戻され左大弁も止められた。

建武3年/延元元年(1336年)5月の建武の乱のさなかに出家した。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ a b c d 『弁官補任』

参考文献

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