年羹堯
表示
字 | 亮工[1] |
号 | 雙峯[2] |
出生死歿 | |
---|---|
出生年 | 康熙18年 (1679)[2] |
死歿年 | 雍正3年12月 (1726年1月) |
爵位官職 | |
康熙39年 (1700) 庶吉士 | |
康熙48年 (1709) 内閣学士兼礼部侍郎 | |
康熙48年 (1709) 四川巡撫 | |
康熙57年 (1718) 四川総督兼巡撫 | |
康熙60年 (1721) 四川陝西総督 | |
雍正1年 (1723) 三等公爵 | |
雍正1年 (1723) 撫遠大将軍 | |
雍正2年 (1724) 一等公爵 | |
雍正2年 (1724) 一等男爵 | |
雍正3年 (1725) 杭州将軍 | |
一族姻戚 | |
父 | 年遐齡 |
妹 | 雍正帝年貴妃 |
妹夫 | 愛新覺羅・胤禛 (雍正帝) |
年 羹堯 (仮名:ネン-コウギョウ, 拼音:nián gēngyáo) は、清康熙・雍正朝の漢人官僚。妹は雍正帝の年貴妃。
四川巡撫に任命されると、西藏を侵犯したジュンガル部の策妄・阿喇布坦ツェワン・ラブタン、続けて青海で叛乱を起した青海ホショト部の羅卜藏・丹津ロブサン・ダンジンの軍を撃攘し、清朝 (延いては現在の中華人民共和国) がチベットを版図に組み込むきっかけを作った。[3]
略年表
[編集](以下の日附はいづれも旧暦。【 】内は満年齢。)
康熙39年 (1700)【21歳】
康熙42年 (1703)【24歳】
康熙44年 (1705)【26歳】
康熙47年 (1708)【29歳】
康熙48年 (1709)【30歳】
康熙50年 (1711)【32歳】
- 4月20日:岳昇龍の隊と合流して斡偉の生番を討伐するよう勅旨を受けながら合流せず、中途で帰還したことを咎められ、巡撫の職を免黜。情状酌量され留任。[10]
康熙57年 (1718)【39歳】
康熙60年 (1721)【42歳】
雍正1年 (1723)【44歳】
- 2月21日:二等阿達哈哈番アダハ・ハファンの世職 (二等軽車都尉に相当) を授与。[14]
- 3月5日:太保の称号を授与 (同期に吏部尚書兼歩軍統領・隆科多ロンコド、保和殿大学士・馬斉マチ)。[15]
- 3月9日:三等公に叙爵。[16]
- 10月2日:羅卜藏・丹津ロブサン・ダンジン討伐の為、撫遠大将軍に就任。[17]
- 10月8日:ゴロク平定の恩賞として二等公に陞叙。[18]
雍正2年 (1724)【45歳】
雍正3年 (1725)【46歳】
- 3月23日:年羹堯が「朝乾夕惕」[注 2]と書くべきを「夕陽朝乾」[注 3]と書いた奏摺を呈上。憤慨した雍正帝が年羹堯の青海平定における功績を抹殺。[23]
- 4月12日:浙江杭州将軍に降格 (兵卒の操練が実務)。嘗ての部下である岳鍾琪が代って四川陝西総督に就任。[24]
- 7月20日:岳鍾琪の弾劾を受け二等公に貶降。[25]
- 7月25日:田文鏡の弾劾を受け三等公に貶降。[26]
- 12月11 (西暦1726年1月):自死。[27]
一族
[編集]妻妾
[編集]子孫
[編集]年羹堯には子が大勢あったが、年羹堯が雍正帝の怒りを買った為にその子らも処罰され、年富は斬首、その外の15歳以上の子は兵卒として配流された。年羹堯の死後に雍正帝の寛恕を受け、年羹堯の父・年遐齡の許へ引き取られた。[27]
- 子・年熙:長子(一説に改名して年徳柱)。[32]
- 子・年斌
- 子・年富:父・羹堯の戦功により一等阿思哈尼哈番 (一等男爵) に叙爵されたが、羹堯とともに断罪され、斬首。[1]
- 子・年興
- 子・年秀
- 孫・年王臣:父不詳。[2]
逸話
[編集]- 安徽省蚌埠市懐遠県に遺る『年氏宗譜』の記載に拠れば、年家の祖先は懐遠火廟北の年家庄牛王殿に原籍を置いたが、明末に懐遠西南の湖疃寺 (現胡疃) に移居し、清順治年間には鳳陽年家崗 (安徽省滁州市鳳陽県は明太祖朱元璋の出身地) へ、その後さらに盛京広寧県 (現遼寧省瀋陽市北鎮市) に転籍した。[33]
- 年家は、代々明朝に仕えて宦官を輩出した家系であった。[28]
- 張廷玉とはともに康熙39年 (1700) に進士から庶吉士となった同期だが、[34]片や文官として康熙、雍正、乾隆三朝に仕えた末に大廟に祀られ、片や武官として出世したものの一門番にまで貶められた末に自害させられるという、対照的な末路を歩んだ。
- 著書に『治平勝算全書』全28巻、『繪圖兵法』全20巻、『本草類方』全10巻、『年羹堯奏摺』など。[33]
- 年羹堯は宣武門内の右隅に邸宅を下賜され、門には「邦家之光」(国家の光) と書かれた扁額がかけられていた。後、日に日に傲慢になっていく年羹堯のその邸宅の前を通った有識の士は扁額をみて「可改書『敗家之先』」(「没落者の先駆け」と書き換えるべきだ) と呟いたという。時を経ずして、年羹堯は雍正帝の怒りを買い度重なる降格に遭った。[35]
- 雍正帝の怒りを買って大将軍から杭州駐防防禦の職に降格されてからは、日ねもす湧金門の脇に坐っていた。しかしそれでも薪売りや蔬菜売りが「年大將軍在也」(大将軍がいらっしゃる) と言って門を通ることを憚ったほど、往時の威厳は健在であったという。道光年間 (19世紀中頃) に『嘯亭雜錄』を著した昭槤 (ヌルハチ仍孫) は「實近日勳臣所未有也」(実に最近の勲臣にはないことだ) と感慨をもらしている。[36]
登場作品
[編集]テレビドラマ
放映年 | 原題 | 邦題 | 配役 |
---|---|---|---|
1999 | 雍正王朝 | 雍正王朝 | 杜志国 |
2010 | 宮鎖心玉 | 宮パレス〜時をかける宮女〜 | 李沁東 |
2011 | 甄嬛伝 | 宮廷の諍い女 | 孫寧[注 5] |
2017 | 花落宮廷錯流年 | 花散る宮廷の女たち〜愛と裏切りの生涯〜 | 鄭拓疆 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 参考:『聖祖仁皇帝實錄』巻233に「翰林院侍講學士年羹堯」とある為、康熙47年以前に翰林院検討から昇任/転任していたことになるが、それ以前の記事に記載ない為不詳。[7]中央研究院歴史語言研究所の運営するサイト「人名權威」も「47年以降」としている。[2]
- ^ 参照:『易經-乾卦-九三』「君子終日乾乾し、夕に惕若たり。厲けれども咎無し。」より、こつこつ励んで過ちを犯さぬよう心がけ、兢兢業業として片時も怠らないこと。[21]
- ^ 参考:「夕惕朝乾」であれば「夕に反省 (惕) し朝に勤勉 (乾) する」と順番が替るだけで問題ないが、「夕惕」を「夕陽」とすると本来の意義が失われて皇帝を讃える言葉にならない上に、「夕陽」[22]は老衰や没落など下り坂を意味し、更に雍正帝が「年羹堯平日非粗心辦事之人」と分析している通り、年羹堯は内閣学士にまで昇っていることからこのような低級な間違いを犯すはずはなく、また「字畫潦草」とあることからただの字の書き違えにみせようとしているともとれ、雍正帝は年羹堯が故意に自らを揶揄していると受けとり、多重の要因で憤慨した。
- ^ 参考:维基百科「年羹尧」にはヌルハチ→阿濟格アジゲ→傅勒赫→綽克都→素嚴→娘 (年羹堯後妻) とあるが、『愛新覺羅宗譜』にはみあたらない。[31]「人名權威」には「妻叔」として「普照」と「經照」の二人が記載されているが、妻の父の名は未記載。「素嚴」は前二者の長兄にあたる。[2]
- ^ 参考:2003年放映の歴史ドラマ『走向共和』では康有為を演じている。
出典
[編集]- ^ a b c “年羹堯”. 清史稿. 295. 清史館
- ^ a b c d e “年羹堯”. 人名權威. 中央研究院歷史語言研究所. 2024年2月10日閲覧。
- ^ “〈論説〉ロブザンダンジンの反乱について”. 史林: 1.
- ^ “康熙39年5月11日段19029”. 聖祖仁皇帝實錄. 199. -
- ^ “康熙42年4月20日段19862”. 聖祖仁皇帝實錄. 212. -
- ^ a b “康熙44年5月18日段20475”. 聖祖仁皇帝實錄. 221. -
- ^ a b “康熙47年5月20日段21287”. 聖祖仁皇帝實錄. 233. -
- ^ “康熙48年2月8日段21457”. 聖祖仁皇帝實錄. 236. -
- ^ “康熙48年9月17日段21609”. 聖祖仁皇帝實錄. 239. -
- ^ “康熙50年4月20日段22014”. 聖祖仁皇帝實錄. 246. -
- ^ “康熙57年10月20日段23996”. 聖祖仁皇帝實錄. 281. -
- ^ “康熙57年10月23日段23998”. 聖祖仁皇帝實錄. 281. -
- ^ “康熙60年5月25日段24571”. 聖祖仁皇帝實錄. 292. -
- ^ “雍正1年2月21日段25066”. 世宗憲皇帝實錄. 4. -
- ^ “雍正1年3月5日段25079”. 世宗憲皇帝實錄. 5. -
- ^ “雍正1年3月9日段25082”. 世宗憲皇帝實錄. 5. -
- ^ “雍正1年10月2日段25279”. 世宗憲皇帝實錄. 12. -
- ^ “雍正1年10月8日段25284”. 世宗憲皇帝實錄. 12. -
- ^ “雍正2年4月2日段25443”. 世宗憲皇帝實錄. 18. -
- ^ “雍正2年11月25日段25674”. 世宗憲皇帝實錄. 26. -
- ^ “朝乾夕惕 zhāo qián xì tì”. 重編國語辭典修訂本. 中華民國教育部
- ^ “夕陽 xì yáng”. 重編國語辭典修訂本. 中華民國教育部
- ^ “雍正3年3月23日段25780”. 世宗憲皇帝實錄. 30. -
- ^ “雍正3年4月12日段25797”. 世宗憲皇帝實錄. 31. -
- ^ “雍正3年7月20日段25885”. 世宗憲皇帝實錄. 34. -
- ^ “雍正3年7月25日段25890”. 世宗憲皇帝實錄. 34. -
- ^ a b c “雍正3年12月11日段26007”. 世宗憲皇帝實錄. 39. -
- ^ a b “年遐龄” (中文). 怀远县人民政府网. 怀远县人民政府. 2024年2月1日閲覧。
- ^ “年希堯”. 清史稿. 295. 清史館
- ^ “后妃 (敦肅皇貴妃)”. 清史稿. 214. 清史館
- ^ “素嚴(奉恩輔國公)”. 爱新觉罗宗谱网. 2024年2月11日閲覧。
- ^ 『永憲録』巻二上、夏四月乙卯、「除山陝楽籍」の条。
- ^ a b “年羹尧 (清抚远大将军)” (中文). 怀远县人民政府网. 怀远县人民政府. 2024年2月1日閲覧。
- ^ “康熙39年5月11日段19029”. 聖祖仁皇帝實錄. 199. 不詳
- ^ “年大將軍先兆”. 嘯亭續錄. 3. 不詳
- ^ “年羹堯之驕”. 嘯亭雜錄. 9. 不詳
参照文献
[編集]『清實錄』
[編集]- 富察・馬斉, 張廷玉, 蒋廷錫, 他『聖祖仁皇帝實錄』雍正9年 (1731) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 西林覚羅・鄂爾泰, 他『世宗憲皇帝實錄』乾隆6年 (1741) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
史書
[編集]- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 民国17年 (1928) (漢) *中華書局版
- 愛新覚羅・昭槤『嘯亭雜錄』光緒1年 (1875) (漢) *商務印書館版
- 蕭爽『永憲録』乾隆17年 (1752) (漢) *中華書局「清代筆記史料叢刊」、朱南銑点校、1959年
論文
[編集]- 佐藤, 長 (11 1972). “<論説>ロブザンダンジンの反乱について”. 史林 (史学研究会 (京都大学文学部内)) 55 (6): 707-738. CRID 1390009224845985152. doi:10.14989/shirin_55_707. hdl:2433/238104. ISSN 0386-9369 .
- 大谷, 敏夫 (07 1976). “<論説>雍正帝の治政と年羹堯断罪事件 : 朋党・営私問題を中心として”. 史林 (史学研究会 (京都大学文学部内)) 59 (4): 575-619. CRID 1390572174799435008. doi:10.14989/shirin_59_575. hdl:2433/238299. ISSN 0386-9369 .
- 加藤, 直人 (12 1986). “ロブサン・ダンジンの叛亂と淸朝 : 叛亂の經過を中心として”. 東洋史研究 (東洋史研究會) 45 (3): 452-478. CRID 1390009224834185600. doi:10.14989/154170. hdl:2433/154170. ISSN 0386-9059 .
- 池田, 修太郎 (07 2013). “康煕年間の年羹尭:行政改革の面を中心に”. 立命館東洋史学 (立命館東洋史學會) 36: 27-70. CRID 1390009224894405760. doi:10.34382/00006198. hdl:10367/12062. ISSN 1345-1073 .
Webサイト
[編集]- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
- 「人名權威 人物傳記資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
- 懐遠県 (安徽省) 人民政府公式HP「历史人物」