広瀬女王
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広瀬女王(ひろせじょおう/ひろせ の おおきみ、生年不詳 - 天平神護元年10月22日(765年11月9日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の皇子、那我親王(長親王)の娘[1]。名は広背[2]・広湍[3]とも記される。位階は従三位。
略歴
[編集]養老7年(723年)正月、粟田女王・海上女王・智努女王らとともに従四位下に初叙される。その後の昇叙は粟田女王とほぼ同時に行われているが、聖武朝以降の昇進は見られず、しばらくたった天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱の直後の論功で円方女王・神社女王とともに従三位に昇叙している。翌天平神護元年(765年)に薨去。
なお、『本朝皇胤紹運録』は、長親王の子に「上道広川女王」をのせているのは、この女王と混同した可能性が考えられる[4]。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 養老7年(723年)正月10日:従四位下
- 天平11年(739年)正月13日:従四位上
- 天平20年(748年)3月22日:正四位上
- 天平宝字8年(764年)10月7日:従三位
- 天平神護元年(765年)10月22日:薨去