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広瀬直幹

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広瀬直幹

広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年明治8年)1月[1] - 1936年昭和11年)5月2日[2])は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。旧姓・豊田。

経歴

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香川県出身。豊田官吾の二男として生まれ、広瀬トセの養子となる[1]第三高等学校を卒業。1904年京都帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる[1][3]

以後、栃木県警視北海道庁事務官・第二部長[4]群馬県事務官、和歌山県事務官・警察部長、内務書記官長野県内務部長、徳島県内務部長、長崎県内務部長などを歴任[1]

1919年8月、宮崎県知事に就任。新設の県立中学校について、前堀内秀太郎知事が飫肥町(現日南市)に設置の内定を出していたが、広瀬に引き継がれなかったのか下穂北村(現西都市)に設置を約束した(妻中学校)。そのため県会が紛糾し、広瀬知事に対してドビンが投げつけられる事件が起こった。1921年6月、関東庁内務局長へ転任[1]1927年に退官。その後、東京市社会局長を務めた[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e 『新編日本の歴代知事』1085頁。
  2. ^ 『朝日新聞』(東京本社発行)1936年5月5日夕刊、2面の訃報より。
  3. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』187頁。
  4. ^ 『官報』第7212号、明治40年7月15日。

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。