コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

広瀬美代子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広瀬 美代子
Miyoko Hirose
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1959-03-05) 1959年3月5日(65歳)
出身地 兵庫県神戸市垂水区
ラテン文字 Miyoko Hirose
身長 170cm
体重 57kg
血液型 AB型
選手情報
愛称 ヒロ
ポジション レフト
指高 214cm
利き手
スパイク 295cm
獲得メダル
女子 バレーボール
オリンピック
1984 ロサンゼルス バレーボール
ワールドカップ
女子 バレーボール
1981 バレーボール
テンプレートを表示

広瀬 美代子(ひろせ みよこ、現姓:中島 、1959年3月5日 - )は、兵庫県神戸市垂水区出身の日本の元女子バレーボール選手。ロサンゼルス五輪銅メダリスト[1]

来歴 

[編集]

母親がママさんバレーをしていた影響で中学1年よりバレーボールを始めた。兵庫県立舞子高等学校を経て、1977年に日本リーグのユニチカ(当時)に入社した[1]

1979年全日本入りをする。1981年ワールドカップでは銀メダル獲得に大きく貢献し、広瀬もレシーブ賞獲得およびベスト6に選出された[1]1984年日立の選手が中心のロサンゼルス五輪代表にユニチカから唯一出場した。準決勝の中国戦では郎平に対するピンチレシーバーとして起用されたが「鉄のハンマー」と呼ばれた郎平の強烈なスパイクを止めることができず、チームは敗れたものの銅メダルを獲得した[1]1985年に現役を引退し、広瀬は日本を代表する名レシーバーで拾ってつなぐユニチカバレーの象徴ともいえる存在であった[2]

人物・エピソード

[編集]

新設された舞子高校の第一期生で当時体育館がなかったため、屋外にコートを造った[1]。バレー部監督(当時)は、「すかっとした明るい性格」と評している。信条は「前進」だと語っている。

「舞子高校のエースをマークしろ」と言われ、県大会ではベスト4進出の実績をもっている。

球歴・受賞歴

[編集]
  • 所属チーム
市立歌敷山中舞子高校ユニチカ(1977-1985年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 兵庫のメダリスト 北京五輪特集”. 神戸新聞 (2008年6月3日). 2010年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月22日閲覧。
  2. ^ ベン・ジョンソンはいまも怒っていた あの人はいま オリンピック選手篇”. 講談社 (2012年3月2日). 2013年12月22日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 月刊バレーボール 1980年5月号臨時増刊 78ページ