庄司保親
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庄司 保親 しょうじ やすちか | |
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生年月日 | 1912年3月1日 |
出生地 |
鳥取県西伯郡渡村大字渡 (現境港市渡町) |
没年月日 | 没年不明 |
出身校 |
東京帝国大学経済学部 (現・東京大学) |
配偶者 | 妻・庄司昌子 |
親族 |
実父・庄司廉(渡村長) 義父・木佐徳之助(島根県平田市長) |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年 - |
庄司 保親(しょうじ やすちか、明治45年(1912年)3月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元合資会社第弐商会代表社員社長。元鳥取県西伯郡渡村会議員。
経歴
[編集]明治45年(1912年)3月1日、鳥取県西伯郡渡村(現境港市渡町)に庄司廉の長男として生まれる。
昭和11年(1936年)東京帝国大学経済学部卒業[1]。
昭和17年(1942年)鳥取県石炭統制(株)常務取締役[1]。昭和21年(1946年)鳥取地方裁判所調停委員(~1980年)[1]。昭和26年(1951年)合資会社第弐商会代表社員社長[1]。昭和35年(1960年)協和地下工業(株)代表取締役社長[1]。
昭和36年(1961年)鳥取県教育委員(~1969年)昭和37年(1962年)(株)博愛病院取締役社長[1]。昭和38年(1963年)(医)博愛病院理事長[1]。
人物像
[編集]結婚
[編集]庄司保親は、奥出雲の山林大地主・23代田部長右衛門の全面的な世話で、島根県平田市の木佐家から嫁をもらった。この恩義に報いるため後年、保親は24代田部長右衛門の嫁に2代目坂口平兵衛の四女陽子を世話したという(『田部長右衛門(朋之)先生追悼録』)。
人柄・性格
[編集]家族・親族
[編集]庄司家
[編集]→詳細は「庄司廉 § 家族・親族」を参照
親戚
[編集]参考文献
[編集]- 『新日本人物大観(鳥取県版)』 人事調査通信社 1958年 シ…156頁
- 『田部長右衛門(朋之)先生追悼録』 山陰中央新報社 1981年 160-162頁
- 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 293頁)