弘前市立第一中学校
表示
弘前市立第一中学校 | |
---|---|
北緯40度36分30.0秒 東経140度28分36.4秒 / 北緯40.608333度 東経140.476778度座標: 北緯40度36分30.0秒 東経140度28分36.4秒 / 北緯40.608333度 東経140.476778度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 弘前市 |
設立年月日 | 1947年4月4日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | C102210000220 |
中学校コード | 020024 |
所在地 | 〒036-8021 |
青森県弘前市和徳町363-13 | |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
弘前市立第一中学校(ひろさきしりつ だいいちちゅうがっこう)は、青森県弘前市和徳町にある公立中学校。
地元では「一中」(いっちゅう)とも呼ばれる。
沿革
[編集]- 1947年(昭和22年)4月1日 - 時敏小学校校舎に併設する形で、弘前市立第一中学校創立。
- 1949年(昭和24年)4月 - 校歌制定。
- 1951年(昭和26年)7月 - 北横町野田に完成した独立新築校舎に移転。
- 1954年(昭和29年)3月 - 講堂竣工、校旗樹立。
- 1956年(昭和31年)7月 - 校舎一部焼失。
- 1957年(昭和32年)1月 - 校舎復旧工事竣工。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)3月 - 2教室増築。
- 1961年(昭和36年)
- 4月 - 生徒急増の為、旧弘前市立女子高等学校校舎を第二校舎として使用。
- 12月 - 増築校舎落成。第二校舎より引き揚げ。
- 1965年(昭和40年)
- 1969年(昭和44年)12月 - 屋内運動場増築。
- 1975年(昭和50年)4月 - 情緒障害学級新設。
- 1977年(昭和52年) - 現校舎完成[1]。
- 1992年(平成4年) - 弘前市立東中学校を分離。これにより、本校の学級数29学級・生徒数1014名となり、過大規模校(31学級以上)が解消された[2]。
教育目標
[編集]- ジェントルマンシップ
- 初代校長が、戦後の荒廃の中で教育目標としてとなえる。
学区
[編集]- 出典[3]
- 神田全域、堅田1・2丁目、撫牛子全域、大久保、津賀野、百田、和徳町、代官町の一部、植田町、緑町、萱町、徒町川端町、徳田町、南柳町、北柳町、南横町、北横町、茶畑町、野田全域、宮川1〜3丁目、駅前1・2丁目、駅前3丁目の一部、東和徳町、親方町、一番町、百石町、百石町小路、鉄砲町、上鞘師町、下鞘師町、元寺町、元寺町小路、下白銀町、東長町、大浦町、蔵主町、長坂町、笹森町、田茂木町、禰宜町、亀甲町、若党町、小人町、馬喰町、春日町、西城北1・2丁目、東城北1・2・3丁目、宮園全域、山王町、田町全域、八幡町全域、清野袋、青山全域、清野袋全域、岩賀1〜3丁目、向外瀬全域
- これは、城東小学校・和徳小学校・時敏小学校・北小学校の学区と同じ。
周辺
[編集]- 上和徳町公民館
- 土淵川
- 社会福祉法人すみれ会幼保連携型認定こども園弘前すみれ保育園 - 進級前保育園のひとつ
- 和徳土地改良区
- 東照宮 - 土淵川の西側
- 薬王院 - 土淵川の西側
- このほか、中小規模の医療機関も点在する。
アクセス
[編集]- 弘南バス「横町入口」停留所より、
- 青山・宮園団地方面行、自動車運転免許試験場経由弘前駅行、五所川原行のりばから、徒歩約305m・約5分。
- 弘前高校・南高校方面行のりばから、徒歩約340m・約5分(ただし、運行は平日の高校登校日の朝のみ)。
著名な卒業生
[編集]- 川口淳一郎(工学博士・小惑星宇宙探査機はやぶさプロジェクトマネージャー)[4]
- 伊奈かっぺい(タレント・元青森放送社員)
- 斎藤春香(元ソフトボール選手・北京オリンピック女子ソフトボール日本代表監督)[4]
参考資料
[編集]- 『弘前市教育史別巻(年表 学校沿革 索引)』(弘前市教育委員会・1979年3月12日発行)184頁「第一中学校 変遷」(「1992年(平成4年)」の記載を除く)
脚注
[編集]- ^ 弘前市学校施設個別施設計画 (PDF) - 弘前市・2020年3月
- ^ 『木のぬくもりいっぱい 弘前東中きょう開校』「弘前一中から分離 マンモス校解消」(東奥日報・1992年4月1日日付朝刊19面記事)
- ^ 中学校学区 - 弘前市役所
- ^ a b 市民栄誉賞 - 弘前市